文藝春秋寄稿文:「サクラ・サクラ」

東條由布子トップページ | 「文藝春秋」への寄稿文

文藝春秋寄稿文:「サクラ・サクラ」

「サクラ・サクラ」

呆てしなく広がる空も雲も海辺に建つ家々も鶏も椰子の林も、すべてを真紅に染めて暮れてゆくパラオの浜辺に佇んで私たちは亡き英霊を偲んだ。この南浜の蒼い海の底に、異国の荒野に、洞窟に、いまだ百二十万柱の遺骨が放置されたままである。先の大戦でパラオのペリリュー島が激戦地になろうとした時、日本軍はパラオ国民を戦禍から守るためにすべてパラオ本島に移住させた。パラオの人々は累々と横たわる日本将兵の遺骨を埋葬しながら「自分たちが今生きていられるのは日本の兵隊さんのお陰だ」と感謝し、日本将兵を桜の花にたとえ「ペリリュー桜をたたえる歌」を作り、半世紀たった今も記念日には歌いつぎ日本将兵の慰霊をされている。

昭和十九年十一月二十四日、ペリリュー島の激戦は日本将兵の全員玉砕で幕を開じた。九月十五日に米軍が上陸以来、三日で日本軍を落とすと豪語した戦闘が二か月と五日間つづいた。米国の戦闘史上、最高の損害比率の将兵たちを失った。二十四日、四時、大山の戦闘指揮所洞窟で中川州男大佐はパラオ本島司令部に最後の打電をした。『サクラ・サクラ』の暗号だった。二日前の二十二日、七時、戦況の悪化により中川大佐はパラオ本島の司令部に次のように至急電報を打った。「通信断絶の顧慮大となれるを以て、最期の電文は左の如くいたしたく、承知相成りたし。一、軍旗を完全に処置したてまつれり。一、機密書類は異状無く処理せり。右の場合『サクラ』を連送するにつき報告相成りたし」と。

日本軍の戦いについて、太平洋艦隊司令長官C・W・ニミッツが次のように記している。― "諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人が いかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ"。

平成十一年九月、ペリリュー戦で日本将兵と熾烈な戦いをした米元海兵隊員たちと一緒に私はペリリュー島で日本将兵の遺骨収集をした。ガジュマルの枝が縦横に絡みつく険しい大山の斜面に無数の洞窟が掘られていたが、半世紀の歳月でほとんどの入り回は枯れ葉に埋もれていた。わずかに開いている所から滑り込むと、数十人は住める広いもの、二、二人用の小さなもの、中で縦横につながっている司令部などその数約八百ほどと言われる。この島で数十年、遺骨収集をしている清流社の神官がたの思い出話は興味深い。彼等が国学院大学の学生だった頃は鰐を生け捕りにして捌いて食料にし、テントを張って水を溜め飲料に使ったという。鰐を縄で縛り担いでいる写真もあった。彼等は今なお、春秋のお彼岸やお盆には掃除、献花、献香のために島に渡る。英霊を崇敬する真摯な心と誠実さがな れば長く続けることは難しい。暗く深い洞窟の中でヘッドランプの微かな明りを頼りに堆積した土砂を掘る。とすぐに英霊に逢えた。真っ白な美しい歯並びの頭蓋骨をそっと抱いて洞窟を這い上がり半世紀ぶりに外の涼しい風に当てた。ジャングルの樹葉を通して天空から一筋の日の光がシャレコウベを照らした。在りし日の凛々しい姿を想いながら私の落とした涙がその面に滲んだ。私を見つめるその眼高で今一度父母が住む山河を、咲き匂う桜の花を見たかったであろうと、最後の電文に込められた日本人ならではの切なる思いを感じ熱いものが込み上げてきた。青春も愛する人も父母も、全ての思いを断ち切って戦場に飛び立った英霊が今なお暗い洞窟の中に苔むす屍になっているのを見るのはあまりに悲しい。もう遺骨収集は終わったという日本政府の冷たい態度に悲憤し、ペリリュー島で夫を亡くした未亡人は娘と孫を連れて今も遺骨収集をされている。日本政府は国のために亡くなった先人に余りにも冷たい。疎開中に撃沈された千五百人の小学生も、沖縄のひめゆり部隊の女学生も、集団自決した交換手の乙女たちも、韓国人も台湾人も祀られている靖国神社に日本の首相が心からの哀悼の思いを捧げるのはいつの日のことか。白鳩が遊ぶ靖国神社の境内の玉砂利を、英霊たちがこよなく愛した「桜」花のびらが今年も散り染めることだろう。