日本及日本人(H14/陽春号)寄稿:いまだ戦争は終わらず

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日本及日本人(H14/陽春号)寄稿:いまだ戦争は終わらず

日本及び日本人(H14/陽春号)寄稿

世界中の人々が希望に燃えて迎えた新しい千年紀の幕開けから二年が過ぎた今、世界情勢は騒々しくなってきた。アメリカを直撃した航空機テロ、アフガニスタンに潜むテロヘの徹底反撃、イスラエルとパレステナの戦いも激しさを増してきた。世界中の人々が心を一つにした平穏なあの日はもう一戻らないのだろうか―

戦火の中を逃げ惑う幼い子供たち、その頬を伝う涙を見るたびに平和な咽本に生きていることの有り難さを思う。しかし、戦争が無いことイコール平和ではない。最近の乱れ放題の社会風潮、どん底の経済不況、続発する政界の不祥事、気付かぬ内に勢力を延ばす反日思想、戦う相手の顔が見えないだけに、日本の将来に危機感を募らせる人は多い。

戦後の徹底した占領政策が功を奏し伝統的な日本人の価値観が大きく揺らいだことも原因の一つであろう。『国を守る』『日本人としての誇りを持つ』『先人に感謝する』『先輩を敬う』『他人を思いやる』ことなど国家の一員として当然でも、国家という言葉さえ理解できずに育つ子供たちが親になり、教師になり政治家になり、裁判官になる時代になった。自由、平等、人権などが先行する民主主義教育が半世紀をかけて浸透した結果が現代の風潮であれば、それを是正するには長い歳月を要することは言うまでもない。悠久の歴史の中で培われた日本民族の伝統的な精神もその価値観を失ってしまったのだろうか?

半世紀前、国家存亡の危機に立たされた日本は、国の威信にかけて戦争という苦汁の選択をした。

若者たちがペンを銃に代え学び舎を離れ、愛しい人々への思いも断ち切って戦場に散った。青春を謳歌することもなく、妻を娶ることもなく、父母の暖かい懐を離れ国家の危急に立上がった彼等の心情を思うと、やり切れない哀しさが込み上げる。記念館に掲げられている出撃前の僅かなひとときを子大と戯れる愛くるしい面影を残す若き荒鷲たちの真の思いは知るよしもないが、出撃を前にした彼等の表情の何と凛々しく爽やかなことであろう。訪れる学生たちが感動で目を潤ませているが、事の善し悪しは別にして己の命をかけて国や愛しい人を守った先輩たちの生き方は、彼等が生きてゆく上で、何らかの指針になるかも知れない。

*海軍少佐   西日高光命   神風特別攻撃隊 爆装零戦に搭乗し南西諸島洋上にて戦死 二十二歳

学鷲は一応インテリです。
そう簡単に勝てるなどとは思っていません。
しかし、負けたとしても、そのあとはどうなるのです…。
おわかりでしょう。
われわれの生命は講和の条件にも、
その後の日本人の運命にもつながっていますよ。
そう、民族の誇りに……。

『靖国』四月号より

出撃二日前に従軍記者に語った心境だがぃ彼は戦後の国際社会で苦境に立つであろう日本の立場まで推察し、その講和条約における日本の条件が少しでも有利に展開するなら己の命は……。

個を以て国や同胞を救う民族愛の強さに感動する。彼らが戦場に飛び立つ際に書き残した遺書の行間に祖国を思い肉親の平穏を祈る至純な思いがあふれている。彼等のこうした思いを礎に平和な日本が築かれていることも教えない現代の風潮は、国家を乱す大きな要因であるといつても過言ではない。

毎年、八月十五日になるど繰り返される靖国神社を取り巻くあの時一騒を英霊がたは天上でどんな思いで眺めていることだろう。日本のために命を捧げた日本人を祀る聖地に、外圧によって日本の総理が参拝できないという理不尽な風潮は皆で真剣に考え直す時である。

現在の国の在り方を象徴するように、異国の戦場の洞窟には、いまだ鉄兜を被リロイドメガネをかけ軍靴を履き胸には手櫂弾を抱えた日本の将兵の遺骨が放置されたままである。現代の日本政府が過去の戦争責任を問われるならば、国策として多くの将兵を戦場に送った国家責任はどうなのか? 膨大な赤字債券を抱えてまで利権絡みの膨大な金額のODA支援をする前に、国の責務として異国に放置したままの百二十万柱の同胞の遺骨を帰還させるべきではなかろうか。

いまだ南浜の果に、凍上の荒野に、孤島の洞窟には120万柱の将兵の亡骸が放置されているという事実を知る人は少ない。先人がたへの感謝の心も教えず、ひたすら過去の日本を非難する教育をする国家がどうして栄えよう。

若い兵士たちが散華する際に書いた遺書を教科書に載せれば当然、先輩を尊敬する気持が湧いてくる。国会を喧騒の場にしている国会議員たちが先人の遺書を座右の書にすれば、国民のための良策が出てくるかも知れない。

* * * * * *

平成十一年九月、私たちは米軍からの″日本の将兵の遺骨を収集しよう―″という有り難い呼びかけに応じて『日米合同遺骨収集団』を結成しパラオ・ペリリュウー島に渡島した。日本側からは中学生、高校生、大学生、神官、主婦、元軍人などを含め三十一名の隊員が参加してくれた。この島の陸、海に関するあらゅる詳しい情報を持つ米軍の元軍人たちの先導でジャングルを登り山陰に掘られた沢山の洞窟に入った。米軍人たちの適格な道案内と隊員たちの命懸けの努力のお陰で三十二柱の御遺骨が収集できたが、厚生省職員が同道しないと焼骨できないと言われ、残念ながらペリリュー神社の納骨堂に安置してきた。

帰国後、南洋諸島の遺骨収集はすでに終了としたとする厚生省に、南洋諸島にはいまだ数多の遺骨が放置されている現状を詳細に報告した。

それから二年五か月の歳月が流れ厚生省もやっと重い腰を上げ、十四年ぶりにパラオ・ペリリュー島に遺骨引取りと遺骨収集に行くことになった旧厚生省から二名の職員と諸費用が全額負担になった指定三団体から七名が参加し、当方、遺骨収集を目的に設立したNPO法人「環境保全機構」からは神官「仏教の修行僧、元軍人、経済人、報道関係の人を含めて十三名が参加した。平成十一年に『日米合同遺骨収集団』が収集しペリリュー神社に納骨してきた三十二柱の御遺骨と、戦友会、遺族会が収集した十八柱を焼骨し日本にお帰り頂くことが今回の主な目的のようだった。今回、新たな遺骨も収集でき百十柱を焼骨した。

厚生省とNPO法人関係者が良い関係で協力し合えたのは、団長、副団長の誠実な人柄のゆえかも知れない。しかし、この企画書を作成した援護局外事課の書類には、同じく日本から出発するにも関わらずNPO法人『環境保全機構』の隊員を『現地協力者』と書く厚生省の差別意識には怒りを覚えた。また、指定三団体以外には一切の費用は出さない慣例を敷く厚生省の在り方に大きな矛盾を感じ不満を持った。

        * * * * *

鬱蒼と茂るジャングルの樹々の枝をかき分け、足に絡み付くガジュマルの蔦に足元をすくわれ、転げ落ちそうになりがら急峻な崖をよじ登る。ガジュマルは地面深く根を張り断崖の表面のいたる所に縦横無尽に大い枝を延ばしている。足を滑らせれば後ろの人も巻き添えにする危険があることを意識しながら木に掴まる手にも力が入る。米軍の火炎放射器で麓から頂上まで焼き尽くされていた山々も、半世紀の歳月の間に樹木は過しく成長し南国特有のガジュマルが遅しく生い茂り行く手を阻む。掴まった本が根元からポキリと折れることも何度かあった。上を登る隊員の激しい息づかいが聞こえてくる、言葉を交わす余裕もないほど体力が消耗するが命懸けで黙々と登る。体が直立するほど急勾配な断崖もある中で、重い取材のカメラを担いでいる登る隊員の体力と気力は並大抵ではない。限られた日数の中で一柱でも多くの英霊の遺骨を日本に連れ帰りたい!そんな切実な思いで隊員たちは南国の過酷な自然と向き合いながら洞窟を探す。切り立った断崖の途中の見えない所に沢山の洞窟が掘られていた。枯れ葉に埋もれて洞窟の入り回は見えにくいが泥を掻きわけて中に滑り込む。奥に入れば背が立つほどに広い所もあれば、二、三人がようやく座れる程度の所もあり、幾つかの洞窟が奥でつながっているのもあった。まだ足を踏み入れた痕跡の無い大きな洞窟に入った。隊道が左右に分かれ、大きなドラムカンが幾つも転がり、その下に大いガジュマルの枝が執拗に絡み付いている。若い隊員が鋸で枝を落としながらドラム缶をどかすと沢山の遺骨が埋まっていた。悲しい話だが、カジュマルの茂る洞窟には必ずと言って良いほど遺骨があり、私の数少ない経験から洞窟の壁近くの方が遺骨は沢山埋まっている。体力の消耗を防ぐために壁に寄り掛かって過ごす時間が長かったことは容易に察することができる。昼間でも真っ暗な洞窟の中を僅かに照らすヘツドランプの明りを頼りに瓦礫の混じった土を掘る。ヘッドランプを装着した工事現場用のヘルメットが重みで何度も作業する手元にドスンと落ちる。明りが欲しい!滴り落ちる汗をジャンパーの袖で拭う。時折カメラマンが照らしてくれる明るい照明に元気づいてまた掘り進む。蒸し暑い洞窟に長いこと座って掘っていると下着までびっしょり濡れてくる。眼鏡のレンズにしたたり落ちた汗が溜まる。兵隊さんたちはこんなに寂しくて暗いコウモリが飛び交う洞窟の中に昼間はひそみ、夜間攻撃をかけていたのかと思うと涙が込み上げてくる。劣悪な自然環境の戦地で重い銃器を担ぎ、体力を使う岩盤掘りをやりながら戦つていたことを思えば"熱い""疲れた″などと言っては罰が当たる。気を入れて鉄の熊手で懸命に掘る。手相弾が散乱する洞窟には鉄製の道具は禁物だが燐鉱石の岩盤は固いものでないと掘れないのも事実だ。小さな小指の一片でも見逃さないように丹念に瓦礫の混じる泥をかきわけて探す。広げた白い布にみるみる内に骨の山ができる。"外の空気を吸って一息いれませんか?"と声がかかる。時間も忘れて掘っているが洞窟の奥の酸素が薄くなっているようだ。暗い隊道を這うようにして、岩のデコボコに何度も頭や肩や腰をぶつけながら、入り回の明りを使りに洞窟の外に出てくると、爽やかな風が吹いている。若い隊員が背負って来てくれた水をゴクゴクと飲むと疲れが吹き飛ぶ。水が感動するほど美味しい。平和な日本の生活からは想像もできない別世界で、互いの泥まみれの顔も服も頼もしくさえ見えるのが不思議だ。

パラオ共和国は広島県から真南に南下すること三千キロ、南方洋上に数百の島々を擁して浮かぶ、一万六千人の小さな独立国である。第一次世界大戦後、ドイツから委譲され、日本が二十数年間統治し南洋諸島の中心地として日本はこの島を大切にした。島の中で今も最も栄えているのがコロール島だが、日本統治時代は淵洒な洋風の南洋庁舎があり、美しい並木にモダンな街並が続いていたようだ。市中には官幣大社である南洋神社が偉容を誇っていた。中でも日本が最も重要視し、敵の標的になったのがペリリュー島に敷設された大きな二本の滑走路だった。日本軍は一万三千人の将兵を投入しても死守したかった島であり、米軍も破壊するために七千余人の戦死者を出しながら熾烈な戦いを繰り広げた。かつて、この島は、昭和天皇が十一回も激励電報を打たれたゆえか「天皇の島」と呼ばれていた。昭和十九年十一月、ペリリュー島で一万三百名、アンガウル島で、千八百余名の将兵が玉砕したおり、最後の突撃をかける決意をした現地の司令官は、本国の軍司令部に「ただ今より通信機を破壊し最後の突撃をかけます」という電報を打って突撃し全員玉砕した。その電報を持って宮中を訪れた杉山陸軍大臣に昭和天皇は「激励の返電を打つように」と言われたという。「通信機は破壊され現地には届きませんが」と恐る恐る進言する杉山大臣に陛下は「それでも打て」と命じられたという。電報を受け取る将兵の居ないペリリュー島に敢えて激励電報を打てと命じられた天皇陛下の悲壮な胸中を察した杉山大臣は、副官として宮中に同行した伊藤忠商事の特別顧間である瀬島元参謀が間う「陛下は何と言われましたでしょうか」という言葉に返答せず車の窓から皇居をじっと見つめておられたという。それほど昭和天皇は悲劇の島「ペリリュー島」に深い思いを寄せられていた。

ペリリュー神社の境内に、日本と激烈な戦いをした米大平洋艦隊司令長官、C・W・ニミッツ提督が作られた次のような詩が刻まれた碑が建っている。

諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
太平洋艦隊司令長官 C・W・ニミッツ

ペリリュー島に慰霊にくる人々はこの詩に大変感動する。ペリリュー島は燐鉱石の島だが、六百とも八百とも言われる大小様々な洞窟が掘られたと言う。昼間は洞窟に籠り夜間に紛れて攻撃してくる日本兵たちは恐怖だったと当時日本軍と熾烈な戦いをした米軍の元海兵隊員たちが語ってくれた。玉砕してもなお洞窟の奥深く籠り攻撃をしかけてくるような恐怖を覚え、米軍は引き上げる時に洞窟にパーム弾を投げ込み、火炎放射器で焼き、入り口をコンクリートで封印して引き上げたようだ。焼き尽くされた頃の山々の洞窟の入り回は、麓からもはつきりと見えたそうで、断崖の上の方の洞窟の入り口にはコンクリートで封印された跡が残っていた。米軍の海兵隊員が上陸時に戦死し海が朱に染まったというオレンジビーチの近くに、二千人の日本兵士の屍をブルドーザーで埋めてコンクリートで塞いだという巨大な地下墓地があると州の高官や村人から聞いた。米軍の戦勝記念塔がその上に建っている。遺骨収集をする時にいつも話題になるが、それを開く時期である。それが事実なら一日も早く官・民・自衛隊も協力してこのコンクリートを開けて遺骨を収集したい。厚生省は平成二年から平成十四年三月まで、ペリリュー島での遺骨収集を行っていないが、その間、民間のグループや戦友会などが自費でコツコツと遺骨収集を続けてきたが、まだ洞窟の三分の一ほどしか開けられていないという。ペリリュー島が戦場になる直前、日本の現地司令部はパラオ国民を戦争に巻き込まないために、全ての住民を本島に移した。現地の人々は今でも日本の兵隊さんたちのお陰で命が助かったと言い、真摯に慰霊を続けてくれている。しかし、そんな中でも日本兵とともに銃をとり勇ましく戦ったパラオの若者たちもいた。戦死した十数名の名前を刻んだ慰霊碑が南洋神社の境内に清流社により建立された。

清流社は国学院大学の学生が二十数年前からサイパン島、テニアン島、ペリリュー島、アンガウル島での遺骨収集を熱心につづけ、神社を再建した青年神官のグループである。毎年、春・秋の彼岸、盆には神社の掃除と参拝のために島を訪れる。英霊を崇敬し慰霊を続けている彼等の深い思いは強い。主宰者はすでに頭に白いものが混じるが、国学院大学の学生だった当時のパラオ諸島にはワニが上がってきたという。それを捌いて肉を食べ、雨水を溜めて飲み水にしたという。棒に結ばれたワニを皆で担いでいる写真があった。屋外のテントに野宿しながら遺骨収集をしていた頃からすでに三十年近くの歳月が流れる。今なお慰霊事業を続けている彼等の精神には敬服するばかりである。

今回、焼骨した御遺骨は平成十一年九月、ペリリュー島で収集した。日米の戦いが日本軍の玉砕で終結して五十五年の歳月が流れ、米軍が上陸した九月十五日に日米両国の戦没者合同慰霊祭が行われた。米国からは二百五十余名が参列し軍楽隊も参加した。軍楽隊が奏でる葬送のマーチに合わせて若い兵士が隊列を組み行進し星条旗を揚げる光景を目の当たりにした時、戦死者を弔う国家の在り方の余りの違いに愕然とし、同じく国家のために戦い散華した日本将兵の御霊に、相済まなさが込み上げてきた。日本側で行った慰霊祭には、神官たちが現地の葉で即席に作った榊の枝を見よう見真似で神殿に捧げて手を合わせる姿に笑も漏れ皆は胸を熱くした。

ハワイのパールハーバーにあるアリゾナ戦争記念館に真珠湾を攻撃し戦死した九名の日本将兵の勇ましさを称えた写真入りの大きなポスターが張られ売店でも売られている。米国は敵味方を問わず、国家に忠節を尽くした人間を価値ある人として称えるという。

かつての日本はそうであった。日露戦争で勝利した乃木将軍は露軍の将兵を悼み称える大きな慰霊碑を建立し、一年後に日本将兵を癒す小さな慰霊碑を建てた。それが二千数百年、営々と築かれてきた伝統的日本精神の神髄なのであろう。

慰霊祭で私は日米両国の英霊に心からの祭文を読んだ。この日、夫を父上を祖父をこのペリリュー島で亡くされた親子、孫三代のご家族が参加されていた。お祖母さまは二十数年前、厚生省にペリリュー島に余りに多くの遺骨があるので収集して欲しいという願いを出されたが、もうこの島の収集は終わったと言われ悲憤にくれたという。彼女は自分で収集することを決心し中古車もこの島に置かれ、三か月ごとにペリリュー島を往復されコツコツと家族だけで遺骨収集をつづけてこられて来たそうだ。ある時、収集した遺骨を引取りに来た厚生省の職員から「貴女は四百数十柱の遺骨を収集しました」という約五倍の数の証明書が渡されて愕然としたと言う。

「私は百柱ちょっとしか収集していません、どんな数え方をしたのですか―」その時、厚生省職員が頭蓋骨が一柱、腕が二本で二柱、足が二本で二柱で、合計五柱という数え方をしているのを知って、もう収集が終わったという厚生省のやり方を知り、その余りにも英霊に対する愛情の無さに涙がこぼれたという。私も渡島する前にその数え方を知らされ、まさかと思っていたが彼女の話を聞いて改めて変な納得をした。厚生省の援護局、外事室長は、それは昔の数え方で今は違うと否定されたが、今年の二月二十六日の沖縄の遺骨収集の要領にも、今回も同じような数え方の方法が書かれていた。ますます厚生省への不信感が募った。だからこそまだ百二十万柱の同胞の遺骨が放置されているにも関わらず、南洋諸島は終わったとする厚生省の態度が理解できた。本来国家が収集するのが義務であるにも関わらず、民間が自費でやっている理由も分かってきた。

平成十三年の春、桐生市で「キトープリント」という印刷会社を経営されている菊池貴子さんという方にお目にかかったことがある。職業軍人だったお父上は、生前よく南洋諸島の旧戦場に戦友の遺骨収集に行かれていたという。

昭和天皇が崩御されたその日、それまでお元気だった父上なのに縁側の揺り椅子に揺られたままの姿で、あたかも殉死するかのように安らかな御顔で人知れず黄泉の国に旅立たれていたという。そのお父上が遺骨収集された時の思いを詩文にして残されたものをカレンダーに印刷され頂戴した。その詩を読んだ時、あたかもお父上が私の心の中に入って、私の思いをそのまま詩に託されたような錯覚にとらわれた。

御遺骨が山野に放置されている状況を、これほど正確に情景描写される才能に感動したのは無論だが、戦友を思う父上の思いの深さに感動して読みながら涙が止まらなかった。南洋の孤島、ペリリュー島で目の当たりにした光景そのままだったからである。

(*軍歌「戦友」の詩に読み替えて作られたという。)

一、比処は、お国幾千里 遥かに遠き南海の 鳥も通わぬ島かげに 倒れし戦友よ今何処

二、戦に敗れ国亡び 戦友が勲は無となり 戦友がむくろはすておかれ 草木と朽ちて苔むしぬ

三、幾度月日はめぐるらん 弔ふ身よりの一人なく 額づく友の影もなく 訪なふものは雨と風

四、やがて輝く日の御旗 戦友がいまわの戦場に はらから集い来て見れば のどけき島のたたづまい

五、一度入りてジャングルの 奥みに戦友を求むれば 無残なるかや遠近に 野晒ならぬシャレコウベ

六、戦友が遺骨の傍に 淋しき年月まもりしは 穴のあきたるてつかぶと まだ朽ちやらぬ軍靴

七、雨と降りくる砲爆に 戦友の多くは倒れゆき 返す力の術もなく リーフに砕く波しぶき

八、かはきをいやす水もなく 飢をしのぐ食もなく ましてや弾丸もつきはてぬ ただひたすらに國のため

九、捧げし生命はおしまねど かかる運命にあはんとは 戦友が無念が身にしみて 頭をたれて只なみだ

十、いざや帰らんもろとも 四季うるはしき父母の國 蓋す誠に差はあれど 心安けくねむれかし 心安けくねむれかし

軍歌の詩にあるように弾丸飛び交う中で傷ついた戦友を気遣いながら戦い戦友を背負って戦場を駆ける将兵でなくては、こんな素晴らしい詩は浮かんでこない。お父上が戦死した戦友に寄せられる深い思いと、死を悼む悲しみが胸を打つ。

真っ白く美しく揃った歯が残された頭蓋骨を胸に抱いて涙を流したあの日の悲しみが込み上げてきた。

"凛々しい顔だちの青年だったに違いない"と生前の面影を偲びながら思わず落とした涙がシャレコウベに滲んで広がっていった。殆ど欠けていない頭蓋骨を洞窟の奥からそっと持って這い上がり、五十数年ぶりに外の新鮮な空気を吸わせてさしあげた。

昼間でも暗いジャングルの生い茂った樹葉を通して天空から一筋の光が射し込みシャレコウベを照らした。神秘的な情景に息を呑んで見つめる若い隊員たちの表情が忘れられない。異国の戦場に戦ったままの姿で放置されている将兵にとり戦争はまだ終わってはいない。

日本をすっぽりと覆った霧が晴れるのはいつの日か!世界のいかなる国にもない悠久の輝やかしい歴史を持つ日本に誇りを持ち、聖徳太子が諸外国に示されたあの『日本は陽出づる国』であるという堂々たる自信を政治家が取り戻した暁には、国のために戦った御霊が眠る靖国神社に総理大臣が背を向けるような恥かしいことはさせまい。

靖国神社はかって日本の軍人であった台湾の人も、韓国の人も、沖縄から本州に疎開中に撃沈された対馬丸に乗っていた九百余名の小学生も、従軍看護婦さんも、樺太で殉死された九名の電話交換手も、また世界中の戦場で亡くなった異国の人々も祭られているのを、マスコミ自身も知らない。報道の姿勢次第では国民の意識は変わる。靖国神社に遺骨が埋葬されていると信じている人が沢山いることは嘆かわしい。

神社に祀られた御霊は分祀することは出来ないという事実さえ知らぬマスコミ人は多い。靖国神社は独立した宗教法人である。仮りに日本政府が、いわゆるA級戦犯七人を「分祀すべし」という決定を下し法制化したとしても、宗教法人に政治が介入することは出来ない。政教分離を声高に主張するマスコミが一番良く知っている筈である。靖国神社や千鳥ガ淵墓苑がありながら、近隣国の要請で膨大な税金を使い国立墓苑の建設が自民党中枢の要人により進められているという新聞記事を読んだが、かりそめにも税金を使いそんな愚かな無駄をしないで欲しい。国立墓苑建設の推進派の日本遺族会々長の女性会長から、靖国神社参拝推進派の自民党の政治家が変わったが、就任早々に中国に表敬訪問し従来とは違う発言を堂々としているのを聞き、政治家の身代わりの早さに驚くばかりである。

稿を閉じるにあたり、この歴史ある『日本及日本人』の読者にお願いしたい。世界の旧戦場に放置されたままの百二十万柱の英霊の御遺骨を父母が待つ懐かしい故郷にお返しするNPO法人『環境保全機構』の運動を、一人でも多く、の国民に広めて頂くことを。