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      <title>東條由布子の『凛として愛する国にするために』</title>
      <link>http://www.tojo-yuko.net/</link>
      <description>東條英機の孫、東條由布子公式サイトです。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2011</copyright>
      <lastBuildDate>Wed, 24 Aug 2011 16:27:28 +0900</lastBuildDate>
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            <item>
         <title>百十三万体の遺骨を見捨てた厚労省</title>
         <description><![CDATA[<p><strong>『ＷｉＬＬ』編集部（以下、編集部）</strong>
</p>
<p>東條さんは以前から熱心に遺骨調査、収集活動をされていましたが、野口さんも最近、はじめられたそうですね。</p>

<p><strong>野口</strong>
</p>
<p>二〇〇八年に、「空援隊」というＮＰＯ法人に参加してフィリピンでの遺骨調査をはじめました。この団体はセブ島に事務所を置き、日本からも毎月のように調査に行っているんです。</p>

<p><strong>編集部</strong></p>

<p>きっかけは何だったんですか。</p>

<p><strong>野口</strong>
</p>
<p>外交官だった父の仕事の関係で、小さいころから海外にいることが多かったんです。父がオーストラリアに赴任しているとき、カウラという捕虜収容所で毎年慰霊祭が行なわれていた。あるとき慰霊祭についていくと、そこにある日本人の基には「織田信長」とか「豊臣秀吉」と歴史上の人物の名前が刻んであるんです。どういうことなのか不思議に思って父に聞いてみると、捕虜になった日本人はそのことを恥に思って本名を名乗らずに、歴史上の人物の名前を名乗っていたということでした。彼らは最終的には脱走を図ってほとんどが撃ち殺されたんです。殺されるために脱走したともいわれています。これは十九歳のころに聞いた話ですが、非常に強く印象に残っていたんです。
</p>
<p>また、私の祖父が戦時中は参謀だったのですが、インパール作戦のときに部下を相当亡くしたそうです。おじいちやん子だったのでよく話を聞いていたのですが、長生きだった祖父は最後まで「部下をあんなに亡くしていながら、自分はこんなに長生きをして、孫にまで恵まれて、本当にこれでいいのか」とずっと悔やんでいた。そのことも頭にありました。
</p>
<p>そして山岳会の先輩だった橋本龍太郎さんといろいろなおつき合いがあつたのですが、橋本さんは遺族会の会長をされていたことがあり、若いときには遺骨収集にも携わっていたそうです。「じつはまだ遺骨はたくさんある。日本の政府は厚生省（現厚労省）に予算をつけなければ」とよくいつていたのが、頭の中にずっとあつたんです。
</p>
<p><strong>東條</strong>
</p>
<p>そういう背景があったんですね。本当にまだたくさんの遺骨が放っておかれているんです。
</p>
<p><strong>野口</strong></p>

<p>思い切ってはじめようと考えたきつかけは、二〇〇五年にヒマラヤに登ったときに最終キャンプ地点で、悪天候で閉じ込められてしまつたときのことです。小さいテントで酸素ボンベも残りわずかで、あと一日下山できない天候が続けば、そこで死ぬだろうという状況になった。</p>

<p>「やってしまった」と思いました。「ここで死ぬんだ」ということを強く意識して、死を迎える準備をしたんです。テントの中で家族へのメッセージを書いた。紙が足りなくなって、マットやテントの天丼にも書きました。
</p>
<p>エベレストの頭上付近には冷凍状態の、ほかの登山者の遺体がゴロゴロしているんですが、「俺が死んだら誰か見つけて連れて帰ってくれるかな。こんなところにいるのはイヤだな」と思ったんです。</p>

<p>私は登山という自分の趣味だから、たとえ死んだとしても自己責任ですが、それでもやっばり日本へ帰りたいな、と思ったんです。戦争で亡くなられた方は自分の意思ではありません。死を意識してから、死ぬまでのしばしの間、彼らは何を思っていたんだろうか、最後の最後には「天皇陛下万歳」ではなく、とにかく日本に帰りたいと思っていただろう、父や母や兄弟、妻子に一日でも会いたいと思っただろうと、テントの中でずっと考えていたんです。</p>

<p>そこで携帯電話で八〇〇〇メートルの山の上からマネージャーに電話をして「もしこれで生還できたら、次のテーマとして遺骨収集をやらなければならない」と話したんです。</p>

<p><strong>■洞窟に二、三〇〇体の遺骨が</strong>
</p>
<p><strong>東條</strong>
</p>
<p>私が遺骨調査、収集活動をはじめたのは、平成八年です。私の事務所にアメリカの元海兵隊の方々から「パラオには日本兵の骨がたくさんみるのに、どうしてほったらかしにしているんだ」と連絡が入りました。アメリカの場合はチームをつくって遺骨収集をしていますから、日本兵の遺骨が累々と打ち捨てられているのを見て不思議に思ったのでしょう。アメリカの方に「手伝ってください」といわれたことが恥ずかしくて……。
</p>
<p>手伝うどころか、自分たちの手でやらなければならないと思い、パラオでの遺骨収集に携わるようになりました。</p>

<p><strong>野ロ</strong></p>

<p>フィリピンは一〇カ所くらい行きましたが、海岸近くの洞窟の中に遺骨がある場合が多いんです。部隊が米兵の攻撃を受けてバラバラになると、味方の船が来たらなんとかなると考えてか、海岸近くの洞窟に逃げ込んだようです。最後の最後まで帰りたかったんだと思います。</p>

<p>洞窟の中は壮絶です。先日発見した場所はセブ島で、観光地の真横でしたが二、三〇〇体の遺骨がありました。骨を踏まなければ歩けないほどです。骨の状態で亡くなり方まで
分かるんですよね。何人かの骨がバラバラになっているものは集団自決をして爆死された方でしょうし、病死の方はきれいな骨をしています。</p>

<p><strong>東條</strong></p>

<p>拳銃で自決された方の頭蓋骨には穴が二つ開いて、貫通しているんです。ある洞窟では、一〇人ほどが集団自決した跡がありました。洞窟を掘ったスコップを背にして骨があったり、青酸カリなどの薬品のビンが転がっていたり。そこで頭蓋骨にちょっとずれてメガネがかけられていたのを見たときには、あまりにもリアルでいいようのない気持ちになりました。
</p>
<p>靴から骨が出ていて、その靴が壁に張りついているものもありました。この兵隊さんはどんな思いで壁に足を踏ん張って亡くなっていったのか、どれだけ淋しくてつらかつたかと思います。「ごめんなさいね」といいながらそつと靴から骨をはずすと、その靴がポロッと壁から落ちたんですよ。五十年以上も張りついていた靴が……。もう思いだけでくっついていたんだと思うとたまらないものがありました。
</p>
<p><strong>■コブラに噛まれたら終わり</strong></p>

<p><strong>野口</strong>
</p>
<p>兵隊さんたちは敵兵や、終戦後はゲリラから隠れるために逃げ込んでいるので、ジャングルの中だったり、険しい場所の洞窟の中にある。だから荒らされずにまだちやんと残っているんですよね。フイリピンの場合はセブ島の、さらに奥まで行くので移動だけでも大変です。しかも治安が悪くて、グリラがいる。</p>

<p>私たちも武装したガードマンを雇って、モトクロス並みのオートバイで現地に向かうのですが、ゲリラが連絡を取り合って追いかけてくる可能性があるので、ものすごいスピードで行かなければなりません。
</p>
<p>着いたら着いたで、がけを登って入るような洞窟だったりする。「野口さんは登山家なんだから大文夫でしょう」といわれてギリギリのところを登る。落ちればアウトですし、中にはコブラがいる。洞窟の中は暗いですから、目が慣れるまでは見えません。噛まれたら終わりですよ。暗くなるとゲリラも増えるし、マラリアの蚊もわいてくる。山で死ななくてもこっちで死ぬかもしれない。
</p>
<p><strong>東條</strong>
</p>
<p>パラオでも遺骨は危険な場所にあって、アメリカの元海兵隊の方々が、まさに命懸けで手伝ってくれます。ちょっとバランスを崩したら転げ落ちるようなところを先導してくれますし、グアムから来た方も一緒に洞窟まで潜ってくれました。「敵兵であろうとも、お国のために戦ったんじゃないか」と、非常に熱い思いを持っているんです。</p>

<p><strong>野口</strong></p>

<p>実際現場に行くと、非常に強い思いに駆られます。調査しても私たちは持って帰ることができないので、そのまま洞窟をあとにするのですが、そのときに「お前も帰っちゃうのか」という無念の思いを強く感じました。私はまったく霊感なんてないほうなんですが、思わず声に出して「すみません、必ず政府が迎えに来ますから」と詫びて帰ってきました。</p>

<p><strong>編集部</strong></p>

<p>地元の人でも分からないような場所を探し当てるのは大変でしょうね。</p>
<p><strong>野口</strong></p>

<p>当時のことを知っている方々に聞くのですが、どんどん高齢化して亡くなってしまうことを考えると、もう残り時間があまりない。あと五年くらいかなと思っています。しかもその情報もガセネタだったりすることがある。「骨がある」というので行ってみると子供の骨がぽつんとあったり、大の骨を置いていたりする。
</p>
<p>だから厚労省の人が毎回来られないのは仕方がないところもあるので、調査して間違いないと分かった場合に来てくれるか、私たちＮＰＯが遺骨を収集して日本に持ち帰ることを許可してくれればいいんです。
</p>
<p><strong>■死者に冷たい日本政府</strong></p>

<p><strong>編集部</strong></p>

<p>アメリカは遺骨収集に熱心ですね。</p>

<p><strong>東條</strong></p>

<p>アメリカは軍の組織の中に遺骨収集専門のチームがあり、司令部もあって、鑑定士や医者、人類学者も加わっています。収集専用の船で南洋諸島を何力月も回っているんです。きちんとした司令官がいて、別の部隊から海兵隊員が手伝いを申し出て参加するシステムになっています。そのため、いまでもとくに海兵隊では「遺体になっても必ず祖国へ戻す」という意識は非常に強いんだそうです。</p>

<p><strong>編集部</strong></p>

<p>日本の場合、国家事業としての遺骨調査、収集はすでに打ち切りになっています。</p>

<p><strong>東條</strong></p>

<p>厚生省（現厚労省）の遺骨収集は昭和二十七年からはじまつて、第二次遺骨収集が終わった昭和四十八年ごろ打ち切りになりました。現在でも一応、確実な情報があれば収集に行きますし、一年に一度は沖縄で厚労省主催の遺骨収集をやっています。</p>

<p>しかしこれには問題があって、国家から日本遺族会に出るお金の中から、一部厚労省ヘ渡り、参加者へお金が配られているようなんです。</p>

<p>どういうことかというと、私は三度、参加したのですが、沖縄では午前と午後合わせて四時間弱しか実際の収集をやらなかったんです。移動や食事の時間に多くを費やし、遺骨もほとんどなくて、歯や頭蓋骨の一部、破片などを集めて「四柱集めた」なんてやっている。</p>

<p>沖縄までやってきてたったこれだけかと思うととても情けなかった。作業終了後に厚労省の方から「日本遺族会」と書かれた封筒に入れられたお金を手渡されました。中を見てみると、七万円も入っているんです。私は格安の航空チケットで、格安のホテルに泊まっていたので余るくらいの金額でした。</p>

<p>もらうわけにはいかないので「返します」といったのですが、「通常の航空券代や宿泊料で計算すると大体これくらいになるので、返されても困ります」といわれたんです。二〇〇人近くが参加していましたから、いつたいいくらかかつたのか。もっとたくさん遺骨があるところが海外にいくらでもあるのに、なんともったいないんだろうと泣きたくなるような思いでいっぱいでした。
</p>
<p>そして、現地の人にはお金が出なかったので、三人で分けたんですが、翌年参加すると、そのときは現地の人もお金をもらつていたので「どうして？」と聞いたら、「沖縄以外の人にはお金が出るから、住所を別のところにして申請した」というんです。沖縄の人には申し訳ないんですが、そういういろいろなことがイヤになってしまって、それから参加するのをやめました。
</p>
<p>毎年この遺骨収集は二、二月の年度末に行なわれるんです。予算合わせと、「やってます」というための、単なるセレモニーとして行なわれているように思えてなりません。
</p>
<p><strong>編集部</strong></p>

<p>やり切れませんね。</p>

<p><strong>野口</strong></p>

<p>それ以外に厚労省が動くのは、ＮＰＯなどの調査報告によつて「たしかにそこに遺骨がある」という情報があつたときだけです。こちらが騒いではじめて、やっと「仕方ないな」と腰を上げるという感じです。
</p>
<p><strong>■一体で五柱？</strong>
</p>
<p><strong>編集部</strong></p>

<p>いまだにそれだけの遺骨があるという報告があるのに、厚労省はなぜ打ち切ったんでしょうか。</p>
<p><strong>東條</strong></p>
<p>厚労省は骨を数えるときに、頭蓋骨一個で一柱、両腕で二柱、両足で二柱と数えるんです。となると一人分で五柱になってしまうから、あつという間に予定数に達したということなんでしょう。</p>

<p><strong>野口</strong></p>

<p>まるで数字合わせですよね。</p>

<p><strong>東條</strong></p>

<p>そうなんです。だから打ち切りになったことに怒った民間の団体が、直後から活動をはじめたのですが、遺骨調査はできても、日本への持ち帰りは民間は許されないんです。</p>

<p>南洋諸島だけでも一一三万柱あることは分かっているし、実際調査に行って、洞窟にある骨が遺留品や状況から日本兵の遺骨だと分かっても、民間はそれを持って帰ることはできません。とにかくその部分は「厚労省の管轄だから」という。
</p>
<p>それどころか、厚労省が「遺骨収集は終わった」としているところへ「まだここにもあるぞ」という情報が来ると困るのか、民間の活動の邪魔をしたり、向こうの大使館に「活動させないように」と連絡を入れることさえあるんです。</p>

<p><strong>野口</strong></p>

<p>厚労省に「一緒に調査に行きましょう」といつても来てくれません。何度呼びかけてもダメです。聞けば担当者の数がものすごく少ないといっていましたが、力を入れていないということですよね。
</p>
<p><strong>■「いっさい関わりたくない」</strong></p>

<p><strong>編集部</strong></p>

<p>厚労省の遺骨収集担当者はわずか二〇人。アメリカは四〇〇入以上いるそうです。
</p>
<p><strong>野口</strong></p>

<p>厚労省だけではなく、外務省管轄の現地の大使館もあまり協力的ではない。「この件に関してはいつさい関わりたくない」とはっきりいわれたこともあります。</p>

<p>どうして外務省がそんなに冷たいのか。父に聞いてみたところ、一つには侵略した側の骨であることがネックになっている。侵略された側の国へ入っていつて、侵略した側の兵士の骨を集めるというのが、外交的に難しいと外務省はいうそうです。</p>

<p>しかしアメリカはベトナムでも朝鮮でも遺骨収集を継続しているし、むしろ遺骨収集活動をしない国は世界で軽蔑される。父は現役時代に「もつと力を入れてやるべきだ」と進言したそうですが、大きな組織なのでなかなか通らなかった。だから、いまの私の活動については「お前がやってくれて嬉しい」と応援してくれています。
</p>
<p>もう一つは、管轄の問題で、現場は外務省の管轄、骨は厚労省の管轄という点です。三つの管理部分が重なったところの話なので、連携がとれずに押しつけ合っている。たつたこれしきのことで、国のために亡くなった方々の遺骨を持ち帰れずにいる。後進国ならば仕方がないかもしれませんが、国のために死んだ人にこんなにも冷たい国は、先進国では日本以外ありません。
</p>
<p><strong>東條</strong>
</p>
<p>現地の方々は必ずしも非協力的ではないのですが、厚労省から向こうの大使館ヘ「活動させないように」と連絡が入ることもあるようです。</p>

<p>事実、私たちがパラオで活動しようとしたら「骨に触ったら逮捕する」といわれたこともあるくらいです。そして何より問題なのは、遺骨調査が現地の人々にとつて一種の商売になってしまつていることです。自分がこれからも関わっていくのであえて島の名前は出しませんが、あるところでは骨を売買し、情報を売り物にしているんです。</p>

<p><strong>野口</strong></p>

<p>情報提供するといって金をとり、案内されて行ってみると動物の骨が撒いてあることもありますからね。</p>

<p><strong>東條</strong></p>

<p>お金次第で骨のある洞窟を案内してくれたり、立ち入り禁上にされたりする。私たちＮＰＯはお金がないので、洞窟までのガイドを安く雇うのですが、厚労省が行くと一日六〇〇ドルも出す。</p>

<p>こうなると現地の人々はなんとしても厚労省を呼びたいわけです。地元の人との交渉や関係の構築を怠って、いわれるままに金を払ってしまうから、彼らは味を占めてしまった。厚労省が悪い"クセ"をつけてしまったんですよ。</p>
<p>
厚労省には骨のある場所を一覧にして地図までつけてフアックスで送っている。しかもその骨は、納骨堂から盗んで隠しているものだったりするんです。そこまでやる。これは元海兵隊の方々がたまたま慰霊に訪れたときに発覚したのですが、盗難現場をビデオに撮ってあります。</p>

<p>厚労省に連絡が入ると、まず日本青年遺骨収集団や日本遺族会などが赴きます。そのときには「調査だけ」といわれて、写真を撮って帰ってくる。調査の結果、日本兵のものだということになると、改めて厚労省が本隊を送り込んでくる。彼らはそれによって三度ガイド料をとれるんです。</p>

<p><strong>■「日本人が迎えに来たよ」</strong></p>

<p><strong>野ロ</strong></p>

<p>ゴロツキみたいなのがいるんですよね。もちろんそうでない方もたくさんいて、私がセブ島で会ったイサベルさんは、戦争中に日本兵に家を接収されたそうです。彼は当時子供で、親と一緒に近くの小屋に移り住んだのですが、そのときにオリガサという日本兵と仲良くなった。しかし通信基地になっていた自宅ごとアメリカの空爆を受け、日本兵はみんな死んでしまった。それから彼はずっとその家の下に埋まっている骨を掘りつづけているんです。イサベルさん自身も歳をとっていて、細腕で日本兵の骨をこつこつと掘りつづけている姿は壮絶でした。</p>

<p>イサベルさんは私たちが日本からやつてきたのを見て、当然どの骨がオリガサさんなのかは分からないのですが「オリガサ、日本人がやっと迎えに来たよ」と嬉しそうに骨に話しかけているんです。でも私たちはその骨を持って帰れないことを説明すると、彼は「どうしてだ」と不思議がる。当然ですよね。</p>

<p><strong>東條</strong></p>

<p>パラオの大統領やトップの方々は非常に協力的ですし、海兵隊と一緒に来た方でお父様をパラオで亡くされた方などは、「これまで<strong>東條</strong>英機を怨みに思っていたけれど、あなたが遺骨を拾う姿を見て、怨む気持ちは一気に晴れました」といってくださつた。ところが何より悲しいのは、向こうへ住み着いた日本人が現地の人間と組んで、詐欺まがいのことをやりつづけていたことです。</p>

<p>それは厚労省が現地で法外なガイド料を払うことや、ＮＰＯに遺骨の持ち帰りを認めないことにも問題があるんです。そこで厚労省に何度も手紙を出し、ＮＰＯに業務委託をするようにお願いしているのですが、絶対にしないと言い張る。死亡診断書を書かないといけないとか、いろいろ理由づけしていますが、結局は「民間が余計なことをするんじやない」ってことなんでしょう。</p>

<p><strong>編集部</strong></p>

<p>国としてやるべきことをやらないで、よくそういうことがいえる。国同士で交渉するわけにはいかないんでしょうか。</p>

<p><strong>東條</strong></p>

<p>厚労省に訴えましたが、「国同士で交渉すると、ＯＤＡを求めてくるから難しい」といわれてナシのつぶてです。たしかに外交では失敗続きで、相手のいわれるままに要求をかなえても、結局自由に調査をさせてくれなかったりするんです。いまも庁舎が欲しいと条件を出してきていますので、「その代わり五年間は自由に調査。収集をやらせてくれ」と交渉してゆけばいいと思っています。</p>

<p><strong>野口</strong></p>

<p>う―ん、本当はそれも変な話なんだけどなあ。</p>

<p><strong>東條</strong></p>

<p>変な話なんですが、国が表立って出て行くと、余計に大きなものを要求されることになるんですよ。</p>

<p><strong>野口</strong></p>

<p>だからこそ民間をうまく使うべきなんですよね。</p>

<p><strong>編集部</strong></p>

<p>しかし、まだたくさんの遺骨が日本に帰れないまま放置されているという現状は、なかなか知られていませんね。</p>

<p><strong>■国を動かすのは世論</strong></p>

<p><strong>野口</strong></p>

<p>そこが問題なので、これからは若い学生を遺骨調査に連れて行こうと思っています。僕らは戦争を知らないからどうしても理屈で考えてしまうし、勉強したとしても、それは知識でしかありません。実際、二、三十代にこうでつ話をしても、きょとんとしている。</p>

<p>しかし現場に行って、放置されている遺骨を見れば違う受け取り方をしますし、「やらなきゃいけない」という思いが強くなります。</p>

<p><strong>東條</strong></p>

<p>そうですね。私もおじいさんに連れられてきた若い子たちとともに活動したことがありますが、最初は「なんで俺が」とイヤイヤだったんです。しかしやり終えるころには「本当にいい経験をさせてもらいました」と、気持ちが大きく変化しました。</p>

<p><strong>野口</strong></p>

<p>厚労省を動かすには、世論の高まりが必要です。そのためにはもつとマスコミに取材してもらいたいのですが、なかなかそうはいかない。お願いしても、書いてくれたのは『産経新聞』くらい。</p>

<p>その理由の一つには、先ほど父の話として出てきましたが、やはり侵略した側であるということから、書きづらいということになる。</p>

<p>最近、環境問題について学校で講演する機会があるのですが、その話の中で話題の一つとして遺骨収集の問題にも触れるんです。すると、大方の学校では先生から「あの話はしてほしくなかった」といわれます。</p>

<p>ある人から聞いた話では、学校で記録映画を上映したとき、特攻隊の飛行機が撃墜されたシーンで拍手が聞こえたことがあった。振り返ってみると先生たちが拍手していたというんです。学校ではそういう教え方をしているんですね。</p>

<p>だから私が遺骨収集に行くことを、周りの人たちの中には「イメージがよくない」と上める人も多かった。どうも偏ったイメージで見られています。</p>

<p><strong>東條</strong></p>

<p>ＮＰＯがはじまったころ、右翼というか、ヤクザまがいの人たちが遺骨収集を掲げてたくさんＮＰＯをつくったんです。厚労省はそのときのことがあるから、いまだに警戒しています。それでも一生懸命こちらから働きかけて、何度も手紙を出したり、直接会いに行って「私が一緒に行けばガイドに六〇〇ドルも払わせない。だからこれから絶対一緒にやりましょう。現地での相手方との交渉も、反故にはさせない」と説得して、国とＮＰＯでタイアップしましょうといっているところです。</p>

<p>本来、国が認めた団体なのだから、骨を焼いて持って帰る権限があつてしかるべきなのです。そうなれば二度手間も省けるし、余計なお金もかかりません。</p>

<p><strong>野口</strong></p>

<p>国がやるべきことをやらないなら、「もうこっちでやっちやうよ」ってことですよね。国を動かすためには、メディアとタイアップして、若い人や政治家の方を現地に連れて行く。まずは現地に行って、現実を知ってもらうことがいちばんだと思います。</p>

<p>（『WiLL』［ワック株式会社］二〇〇八年九月号より）</p>]]></description>
         <link>http://www.tojo-yuko.net/wac/wac.html</link>
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         <category>wac</category>
         <pubDate>Wed, 24 Aug 2011 16:27:28 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>日本がいまだやり残していること</title>
         <description><![CDATA[
<p>『私たちが生きた20世紀』（文藝春秋）より</p>



<p>街の電光掲示板が今世紀の残り日数を刻々と告げている。「二十世紀」という呼び名と別れる寂しさがより募ってくる。今世紀の最後の日、私の心の中の走馬灯には自分の人生に大きな影響を与えた人々の面影が映し出されるに違いない。</p>

<p>昭和五十年代、我が家には百歳の祖母と四歳の曾孫が同じ屋根の下に暮らし、楽しそうに会話をしていた。母方の祖母マサは長崎で医学を修めた父親の勧めで上京し女子教員を養成する大学に入った。日露戦争が勝利した年、彼女は大学を卒業し郷里に帰り教師になった。ほぼ同じ頃、父方の祖母かつ子も福岡から上京し女子大に入った。平塚らいてう女史が女子教育に情熱を傾けていた頃である。三十年後、二人は夫の勤務地である満州（現在の中国東北部）で子供たちの結婚話で会うことになる。無論当時はそれを知るよしも無い。祖母たちは髪を桃割れに結い上げ、くくり袴に編み上げ靴を履き平均台を渡リテニスに興じた。新しい国造りの担い手として若者にかけられる期待は大きく、彼等も西欧の知識を精力的に吸収した。祖母が残したノートには初めて見聞きする西欧教育に胸を躍らせる文字が目につく。舞踏会華やかなりし鹿鳴館時代に祖父母たちは青春時代を送った。</p>

<p>東條家の家系図を見ると軍人は英教、英機の二代だけで、元は『能』の宝生流の宗家だった。曾祖父・英教は山県有朋に見出だされ四人の若者たちの一人としてドイツに留学した。後にメッケル将軍は"東洋にこんな優秀な男がいたのか！"唸ったという。祖父・英機も父親と同じ軍人の道を歩み、女子大の学生だった、かつ子と結婚し陸軍大学に進んだ。</p>

<p>こうした生活環境の東條家に熊本の片田舎の教師の娘だった母が二十歳で嫁いできた。「東條家にとっての今世紀は？」と問われれば、首相の座にあった栄光の時代から、戦後の四面楚歌の中で人目を避けて生きてきた時代を含め、東條家の歴史と共に歩んできた母の人生と重なる部分が多い。「東條家に嫁いで本当に幸せだった」という母の心には、戦後の悲しい時代は消え東條の祖父母の懐かしい面影と優しい言葉しか残っていない。母が嫁いできたばかりの頃、祖父が買ってくれた若草色のショールと、初孫の兄が生まれた時に、祖父がデパートから買って病院に持って来てくれたベビー布団とお宮参りの祝い着が今も大切に母の箪笥にしまわれ、その機月を物語る。</p>

<p>母にとって舅・英機は世界中からいかなる謗りを受けようとも最も敬愛する優しい義父であった。弟が小学校に入学した日、担任の女教師から"東條君のお祖父さんは「泥棒」よりも悪いことをした人"と級友に紹介され泣いて帰った時、母は「世間の誰が何と言っても、お祖父さまは御国のために命を捧げられた立派な御方です。東條家に生まれた誇りを持ちなさい」と毅然と言った。この自信に満ちた『誇りを持て』という言葉が戦後の人生を支えてくれた。両親を戦争で亡くした近所の三姉弟に追いかけられ、石をぶつけられ、小さな妹と弟を兄と私が一人ずつ抱えてうずくまり薪で叩かれている時、物心ついていた兄は何を考えて耐えていたのだろうか？また、転校先で担任のなり手が無い時、毎日ポールに登って窓から級友の姿を眺めていた幼い兄の心を思うといじらしくてならない。当時、獄中に在った祖父に兄は幼い文字でその胸中を書き送っている。『僕はお祖父ちゃまのことを誰が何と言っでも黙っています。お父ちゃまがお返しをしてはいけないと言うので殴られても我慢しています。本当は僕だってお返しぐらいは出来るけど！』と。</p>

<p>獄中の祖父から祖母や父母宛てにくる手紙には、必ず兄「英勝」の名前が見える。傷ついた幼い心が綴ったこの手紙を祖父はどんな思いで読んだのか。</p>

<p>あれから半世紀が流れたころ、『昭和天皇独自録』が出版された。一人の人間として赤裸々に胸中を述べられた文中に東條に信頼を寄せられている文字が多々あった。長年、鬱積していた思いが吹っ切れた。母の手箱の中に大切に保存されていた膨大な数の祖父母からの手紙や絵葉書や育児日記など、我が家に残された祖父母に関する資料を全て網羅して、家庭を軸にした東條英機像を描いた本を書いた。それが文春文庫に収まっている『祖父東條英機「一切語るなかれ」である。平成十年春には東條英機を主人公に、東京裁判の真相を公開した映画『プライド　運命の瞬間』が上映され百三十万人の観客を動員した。私への取材攻勢からしても、海外のマスコミもいかに東京裁判の真相を知りたがっているかが分かった。大きな時代のうねりが確かにやって来た。"百年の後の名を期せ、真実が明かされる日が必ずやって来る"と言った祖父の言葉が心に甦る。</p>

<p>祖父の遺書の中に見える一つの悲願成就のために、私は新たな一歩を踏み出した。平成十一年九月十日、日米合同の遺骨収集団の日本側団長として南の島、パラオ・ペリリュー島に渡った。異国の戦場にはいまだ百二十万柱の遺骨が放置されたままである。祖父が生きていたら、飛んで行って詫び自らの手で収集したであろうにと胸が塞がれる思いだった。密林の洞窟の奥深く半世紀もの間、放置されたままの遺骨の前に額ずき"こんなに暗くて寂しい所に、ごめんなさい、　一緒に故郷に帰りましょう″と、温れる涙がハラハラと遺骨を濡らした。若い団員が母のような優しさで遺骨を胸に抱く姿に涙し、かつての敵国だった米国軍人たちが命懸けで日本兵の遺骨を探してくれるその崇高な心に感動した一間もなく忘れ得ぬ激動の二十世紀が終わる。しかし、遺骨収集の旅が終わる日はいつの事か、その目処も立たない。</p>
]]></description>
         <link>http://www.tojo-yuko.net/20c/20c.html</link>
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         <category>20c</category>
         <pubDate>Wed, 24 Aug 2011 16:25:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>日本及日本人（H14/陽春号）寄稿：いまだ戦争は終わらず</title>
         <description><![CDATA[
<p>日本及び日本人（H14/陽春号）寄稿</p>
<p>世界中の人々が希望に燃えて迎えた新しい千年紀の幕開けから二年が過ぎた今、世界情勢は騒々しくなってきた。アメリカを直撃した航空機テロ、アフガニスタンに潜むテロヘの徹底反撃、イスラエルとパレステナの戦いも激しさを増してきた。世界中の人々が心を一つにした平穏なあの日はもう一戻らないのだろうか―</p>

<p>戦火の中を逃げ惑う幼い子供たち、その頬を伝う涙を見るたびに平和な咽本に生きていることの有り難さを思う。しかし、戦争が無いことイコール平和ではない。最近の乱れ放題の社会風潮、どん底の経済不況、続発する政界の不祥事、気付かぬ内に勢力を延ばす反日思想、戦う相手の顔が見えないだけに、日本の将来に危機感を募らせる人は多い。</p>

<p>戦後の徹底した占領政策が功を奏し伝統的な日本人の価値観が大きく揺らいだことも原因の一つであろう。『国を守る』『日本人としての誇りを持つ』『先人に感謝する』『先輩を敬う』『他人を思いやる』ことなど国家の一員として当然でも、国家という言葉さえ理解できずに育つ子供たちが親になり、教師になり政治家になり、裁判官になる時代になった。自由、平等、人権などが先行する民主主義教育が半世紀をかけて浸透した結果が現代の風潮であれば、それを是正するには長い歳月を要することは言うまでもない。悠久の歴史の中で培われた日本民族の伝統的な精神もその価値観を失ってしまったのだろうか？</p>

<p>半世紀前、国家存亡の危機に立たされた日本は、国の威信にかけて戦争という苦汁の選択をした。</p>

<p>若者たちがペンを銃に代え学び舎を離れ、愛しい人々への思いも断ち切って戦場に散った。青春を謳歌することもなく、妻を娶ることもなく、父母の暖かい懐を離れ国家の危急に立上がった彼等の心情を思うと、やり切れない哀しさが込み上げる。記念館に掲げられている出撃前の僅かなひとときを子大と戯れる愛くるしい面影を残す若き荒鷲たちの真の思いは知るよしもないが、出撃を前にした彼等の表情の何と凛々しく爽やかなことであろう。訪れる学生たちが感動で目を潤ませているが、事の善し悪しは別にして己の命をかけて国や愛しい人を守った先輩たちの生き方は、彼等が生きてゆく上で、何らかの指針になるかも知れない。</p>


<p>＊海軍少佐　　　西日高光命　　　神風特別攻撃隊
爆装零戦に搭乗し南西諸島洋上にて戦死　二十二歳</p>

<p>学鷲は一応インテリです。<br />
そう簡単に勝てるなどとは思っていません。<br />
しかし、負けたとしても、そのあとはどうなるのです…。<br />
おわかりでしょう。<br />
われわれの生命は講和の条件にも、<br />
その後の日本人の運命にもつながっていますよ。<br />
そう、民族の誇りに……。<br />
<br />
『靖国』四月号より</p>

<p>出撃二日前に従軍記者に語った心境だがぃ彼は戦後の国際社会で苦境に立つであろう日本の立場まで推察し、その講和条約における日本の条件が少しでも有利に展開するなら己の命は……。</p>

<p>個を以て国や同胞を救う民族愛の強さに感動する。彼らが戦場に飛び立つ際に書き残した遺書の行間に祖国を思い肉親の平穏を祈る至純な思いがあふれている。彼等のこうした思いを礎に平和な日本が築かれていることも教えない現代の風潮は、国家を乱す大きな要因であるといつても過言ではない。</p>

<p>毎年、八月十五日になるど繰り返される靖国神社を取り巻くあの時一騒を英霊がたは天上でどんな思いで眺めていることだろう。日本のために命を捧げた日本人を祀る聖地に、外圧によって日本の総理が参拝できないという理不尽な風潮は皆で真剣に考え直す時である。</p>

<p>現在の国の在り方を象徴するように、異国の戦場の洞窟には、いまだ鉄兜を被リロイドメガネをかけ軍靴を履き胸には手櫂弾を抱えた日本の将兵の遺骨が放置されたままである。現代の日本政府が過去の戦争責任を問われるならば、国策として多くの将兵を戦場に送った国家責任はどうなのか？　膨大な赤字債券を抱えてまで利権絡みの膨大な金額のＯＤＡ支援をする前に、国の責務として異国に放置したままの百二十万柱の同胞の遺骨を帰還させるべきではなかろうか。</p>

<p>いまだ南浜の果に、凍上の荒野に、孤島の洞窟には１２０万柱の将兵の亡骸が放置されているという事実を知る人は少ない。先人がたへの感謝の心も教えず、ひたすら過去の日本を非難する教育をする国家がどうして栄えよう。</p>

<p>若い兵士たちが散華する際に書いた遺書を教科書に載せれば当然、先輩を尊敬する気持が湧いてくる。国会を喧騒の場にしている国会議員たちが先人の遺書を座右の書にすれば、国民のための良策が出てくるかも知れない。</p>

<p>＊ ＊ ＊ ＊ ＊ ＊</p>

<p>平成十一年九月、私たちは米軍からの″日本の将兵の遺骨を収集しよう―″という有り難い呼びかけに応じて『日米合同遺骨収集団』を結成しパラオ・ペリリュウー島に渡島した。日本側からは中学生、高校生、大学生、神官、主婦、元軍人などを含め三十一名の隊員が参加してくれた。この島の陸、海に関するあらゅる詳しい情報を持つ米軍の元軍人たちの先導でジャングルを登り山陰に掘られた沢山の洞窟に入った。米軍人たちの適格な道案内と隊員たちの命懸けの努力のお陰で三十二柱の御遺骨が収集できたが、厚生省職員が同道しないと焼骨できないと言われ、残念ながらペリリュー神社の納骨堂に安置してきた。</p>

<p>帰国後、南洋諸島の遺骨収集はすでに終了としたとする厚生省に、南洋諸島にはいまだ数多の遺骨が放置されている現状を詳細に報告した。</p>

<p>それから二年五か月の歳月が流れ厚生省もやっと重い腰を上げ、十四年ぶりにパラオ・ペリリュー島に遺骨引取りと遺骨収集に行くことになった旧厚生省から二名の職員と諸費用が全額負担になった指定三団体から七名が参加し、当方、遺骨収集を目的に設立したＮＰＯ法人「環境保全機構」からは神官「仏教の修行僧、元軍人、経済人、報道関係の人を含めて十三名が参加した。平成十一年に『日米合同遺骨収集団』が収集しペリリュー神社に納骨してきた三十二柱の御遺骨と、戦友会、遺族会が収集した十八柱を焼骨し日本にお帰り頂くことが今回の主な目的のようだった。今回、新たな遺骨も収集でき百十柱を焼骨した。</p>

<p>厚生省とＮＰＯ法人関係者が良い関係で協力し合えたのは、団長、副団長の誠実な人柄のゆえかも知れない。しかし、この企画書を作成した援護局外事課の書類には、同じく日本から出発するにも関わらずＮＰＯ法人『環境保全機構』の隊員を『現地協力者』と書く厚生省の差別意識には怒りを覚えた。また、指定三団体以外には一切の費用は出さない慣例を敷く厚生省の在り方に大きな矛盾を感じ不満を持った。</p>

<p>　　　　　　　　＊ ＊ ＊ ＊ ＊</p>

<p>鬱蒼と茂るジャングルの樹々の枝をかき分け、足に絡み付くガジュマルの蔦に足元をすくわれ、転げ落ちそうになりがら急峻な崖をよじ登る。ガジュマルは地面深く根を張り断崖の表面のいたる所に縦横無尽に大い枝を延ばしている。足を滑らせれば後ろの人も巻き添えにする危険があることを意識しながら木に掴まる手にも力が入る。米軍の火炎放射器で麓から頂上まで焼き尽くされていた山々も、半世紀の歳月の間に樹木は過しく成長し南国特有のガジュマルが遅しく生い茂り行く手を阻む。掴まった本が根元からポキリと折れることも何度かあった。上を登る隊員の激しい息づかいが聞こえてくる、言葉を交わす余裕もないほど体力が消耗するが命懸けで黙々と登る。体が直立するほど急勾配な断崖もある中で、重い取材のカメラを担いでいる登る隊員の体力と気力は並大抵ではない。限られた日数の中で一柱でも多くの英霊の遺骨を日本に連れ帰りたい！そんな切実な思いで隊員たちは南国の過酷な自然と向き合いながら洞窟を探す。切り立った断崖の途中の見えない所に沢山の洞窟が掘られていた。枯れ葉に埋もれて洞窟の入り回は見えにくいが泥を掻きわけて中に滑り込む。奥に入れば背が立つほどに広い所もあれば、二、三人がようやく座れる程度の所もあり、幾つかの洞窟が奥でつながっているのもあった。まだ足を踏み入れた痕跡の無い大きな洞窟に入った。隊道が左右に分かれ、大きなドラムカンが幾つも転がり、その下に大いガジュマルの枝が執拗に絡み付いている。若い隊員が鋸で枝を落としながらドラム缶をどかすと沢山の遺骨が埋まっていた。悲しい話だが、カジュマルの茂る洞窟には必ずと言って良いほど遺骨があり、私の数少ない経験から洞窟の壁近くの方が遺骨は沢山埋まっている。体力の消耗を防ぐために壁に寄り掛かって過ごす時間が長かったことは容易に察することができる。昼間でも真っ暗な洞窟の中を僅かに照らすヘツドランプの明りを頼りに瓦礫の混じった土を掘る。ヘッドランプを装着した工事現場用のヘルメットが重みで何度も作業する手元にドスンと落ちる。明りが欲しい！滴り落ちる汗をジャンパーの袖で拭う。時折カメラマンが照らしてくれる明るい照明に元気づいてまた掘り進む。蒸し暑い洞窟に長いこと座って掘っていると下着までびっしょり濡れてくる。眼鏡のレンズにしたたり落ちた汗が溜まる。兵隊さんたちはこんなに寂しくて暗いコウモリが飛び交う洞窟の中に昼間はひそみ、夜間攻撃をかけていたのかと思うと涙が込み上げてくる。劣悪な自然環境の戦地で重い銃器を担ぎ、体力を使う岩盤掘りをやりながら戦つていたことを思えば"熱い""疲れた″などと言っては罰が当たる。気を入れて鉄の熊手で懸命に掘る。手相弾が散乱する洞窟には鉄製の道具は禁物だが燐鉱石の岩盤は固いものでないと掘れないのも事実だ。小さな小指の一片でも見逃さないように丹念に瓦礫の混じる泥をかきわけて探す。広げた白い布にみるみる内に骨の山ができる。"外の空気を吸って一息いれませんか？"と声がかかる。時間も忘れて掘っているが洞窟の奥の酸素が薄くなっているようだ。暗い隊道を這うようにして、岩のデコボコに何度も頭や肩や腰をぶつけながら、入り回の明りを使りに洞窟の外に出てくると、爽やかな風が吹いている。若い隊員が背負って来てくれた水をゴクゴクと飲むと疲れが吹き飛ぶ。水が感動するほど美味しい。平和な日本の生活からは想像もできない別世界で、互いの泥まみれの顔も服も頼もしくさえ見えるのが不思議だ。</p>

<p>パラオ共和国は広島県から真南に南下すること三千キロ、南方洋上に数百の島々を擁して浮かぶ、一万六千人の小さな独立国である。第一次世界大戦後、ドイツから委譲され、日本が二十数年間統治し南洋諸島の中心地として日本はこの島を大切にした。島の中で今も最も栄えているのがコロール島だが、日本統治時代は淵洒な洋風の南洋庁舎があり、美しい並木にモダンな街並が続いていたようだ。市中には官幣大社である南洋神社が偉容を誇っていた。中でも日本が最も重要視し、敵の標的になったのがペリリュー島に敷設された大きな二本の滑走路だった。日本軍は一万三千人の将兵を投入しても死守したかった島であり、米軍も破壊するために七千余人の戦死者を出しながら熾烈な戦いを繰り広げた。かつて、この島は、昭和天皇が十一回も激励電報を打たれたゆえか「天皇の島」と呼ばれていた。昭和十九年十一月、ペリリュー島で一万三百名、アンガウル島で、千八百余名の将兵が玉砕したおり、最後の突撃をかける決意をした現地の司令官は、本国の軍司令部に「ただ今より通信機を破壊し最後の突撃をかけます」という電報を打って突撃し全員玉砕した。その電報を持って宮中を訪れた杉山陸軍大臣に昭和天皇は「激励の返電を打つように」と言われたという。「通信機は破壊され現地には届きませんが」と恐る恐る進言する杉山大臣に陛下は「それでも打て」と命じられたという。電報を受け取る将兵の居ないペリリュー島に敢えて激励電報を打てと命じられた天皇陛下の悲壮な胸中を察した杉山大臣は、副官として宮中に同行した伊藤忠商事の特別顧間である瀬島元参謀が間う「陛下は何と言われましたでしょうか」という言葉に返答せず車の窓から皇居をじっと見つめておられたという。それほど昭和天皇は悲劇の島「ペリリュー島」に深い思いを寄せられていた。</p>

<p>ペリリュー神社の境内に、日本と激烈な戦いをした米大平洋艦隊司令長官、Ｃ・Ｗ・ニミッツ提督が作られた次のような詩が刻まれた碑が建っている。</p>

<p>諸国から訪れる旅人たちよ<br />
この島を守るために日本軍人が<br />
いかに勇敢な愛国心をもって戦い<br />
そして玉砕したかを伝えられよ<br />
太平洋艦隊司令長官　Ｃ・Ｗ・ニミッツ<br />
</p>
<p>ペリリュー島に慰霊にくる人々はこの詩に大変感動する。ペリリュー島は燐鉱石の島だが、六百とも八百とも言われる大小様々な洞窟が掘られたと言う。昼間は洞窟に籠り夜間に紛れて攻撃してくる日本兵たちは恐怖だったと当時日本軍と熾烈な戦いをした米軍の元海兵隊員たちが語ってくれた。玉砕してもなお洞窟の奥深く籠り攻撃をしかけてくるような恐怖を覚え、米軍は引き上げる時に洞窟にパーム弾を投げ込み、火炎放射器で焼き、入り口をコンクリートで封印して引き上げたようだ。焼き尽くされた頃の山々の洞窟の入り回は、麓からもはつきりと見えたそうで、断崖の上の方の洞窟の入り口にはコンクリートで封印された跡が残っていた。米軍の海兵隊員が上陸時に戦死し海が朱に染まったというオレンジビーチの近くに、二千人の日本兵士の屍をブルドーザーで埋めてコンクリートで塞いだという巨大な地下墓地があると州の高官や村人から聞いた。米軍の戦勝記念塔がその上に建っている。遺骨収集をする時にいつも話題になるが、それを開く時期である。それが事実なら一日も早く官・民・自衛隊も協力してこのコンクリートを開けて遺骨を収集したい。厚生省は平成二年から平成十四年三月まで、ペリリュー島での遺骨収集を行っていないが、その間、民間のグループや戦友会などが自費でコツコツと遺骨収集を続けてきたが、まだ洞窟の三分の一ほどしか開けられていないという。ペリリュー島が戦場になる直前、日本の現地司令部はパラオ国民を戦争に巻き込まないために、全ての住民を本島に移した。現地の人々は今でも日本の兵隊さんたちのお陰で命が助かったと言い、真摯に慰霊を続けてくれている。しかし、そんな中でも日本兵とともに銃をとり勇ましく戦ったパラオの若者たちもいた。戦死した十数名の名前を刻んだ慰霊碑が南洋神社の境内に清流社により建立された。</p>

<p>清流社は国学院大学の学生が二十数年前からサイパン島、テニアン島、ペリリュー島、アンガウル島での遺骨収集を熱心につづけ、神社を再建した青年神官のグループである。毎年、春・秋の彼岸、盆には神社の掃除と参拝のために島を訪れる。英霊を崇敬し慰霊を続けている彼等の深い思いは強い。主宰者はすでに頭に白いものが混じるが、国学院大学の学生だった当時のパラオ諸島にはワニが上がってきたという。それを捌いて肉を食べ、雨水を溜めて飲み水にしたという。棒に結ばれたワニを皆で担いでいる写真があった。屋外のテントに野宿しながら遺骨収集をしていた頃からすでに三十年近くの歳月が流れる。今なお慰霊事業を続けている彼等の精神には敬服するばかりである。</p>

<p>今回、焼骨した御遺骨は平成十一年九月、ペリリュー島で収集した。日米の戦いが日本軍の玉砕で終結して五十五年の歳月が流れ、米軍が上陸した九月十五日に日米両国の戦没者合同慰霊祭が行われた。米国からは二百五十余名が参列し軍楽隊も参加した。軍楽隊が奏でる葬送のマーチに合わせて若い兵士が隊列を組み行進し星条旗を揚げる光景を目の当たりにした時、戦死者を弔う国家の在り方の余りの違いに愕然とし、同じく国家のために戦い散華した日本将兵の御霊に、相済まなさが込み上げてきた。日本側で行った慰霊祭には、神官たちが現地の葉で即席に作った榊の枝を見よう見真似で神殿に捧げて手を合わせる姿に笑も漏れ皆は胸を熱くした。</p>

<p>ハワイのパールハーバーにあるアリゾナ戦争記念館に真珠湾を攻撃し戦死した九名の日本将兵の勇ましさを称えた写真入りの大きなポスターが張られ売店でも売られている。米国は敵味方を問わず、国家に忠節を尽くした人間を価値ある人として称えるという。</p>

<p>かつての日本はそうであった。日露戦争で勝利した乃木将軍は露軍の将兵を悼み称える大きな慰霊碑を建立し、一年後に日本将兵を癒す小さな慰霊碑を建てた。それが二千数百年、営々と築かれてきた伝統的日本精神の神髄なのであろう。</p>

<p>慰霊祭で私は日米両国の英霊に心からの祭文を読んだ。この日、夫を父上を祖父をこのペリリュー島で亡くされた親子、孫三代のご家族が参加されていた。お祖母さまは二十数年前、厚生省にペリリュー島に余りに多くの遺骨があるので収集して欲しいという願いを出されたが、もうこの島の収集は終わったと言われ悲憤にくれたという。彼女は自分で収集することを決心し中古車もこの島に置かれ、三か月ごとにペリリュー島を往復されコツコツと家族だけで遺骨収集をつづけてこられて来たそうだ。ある時、収集した遺骨を引取りに来た厚生省の職員から「貴女は四百数十柱の遺骨を収集しました」という約五倍の数の証明書が渡されて愕然としたと言う。</p>

<p>「私は百柱ちょっとしか収集していません、どんな数え方をしたのですか―」その時、厚生省職員が頭蓋骨が一柱、腕が二本で二柱、足が二本で二柱で、合計五柱という数え方をしているのを知って、もう収集が終わったという厚生省のやり方を知り、その余りにも英霊に対する愛情の無さに涙がこぼれたという。私も渡島する前にその数え方を知らされ、まさかと思っていたが彼女の話を聞いて改めて変な納得をした。厚生省の援護局、外事室長は、それは昔の数え方で今は違うと否定されたが、今年の二月二十六日の沖縄の遺骨収集の要領にも、今回も同じような数え方の方法が書かれていた。ますます厚生省への不信感が募った。だからこそまだ百二十万柱の同胞の遺骨が放置されているにも関わらず、南洋諸島は終わったとする厚生省の態度が理解できた。本来国家が収集するのが義務であるにも関わらず、民間が自費でやっている理由も分かってきた。</p>

<p>平成十三年の春、桐生市で「キトープリント」という印刷会社を経営されている菊池貴子さんという方にお目にかかったことがある。職業軍人だったお父上は、生前よく南洋諸島の旧戦場に戦友の遺骨収集に行かれていたという。</p>

<p>昭和天皇が崩御されたその日、それまでお元気だった父上なのに縁側の揺り椅子に揺られたままの姿で、あたかも殉死するかのように安らかな御顔で人知れず黄泉の国に旅立たれていたという。そのお父上が遺骨収集された時の思いを詩文にして残されたものをカレンダーに印刷され頂戴した。その詩を読んだ時、あたかもお父上が私の心の中に入って、私の思いをそのまま詩に託されたような錯覚にとらわれた。</p>

<p>御遺骨が山野に放置されている状況を、これほど正確に情景描写される才能に感動したのは無論だが、戦友を思う父上の思いの深さに感動して読みながら涙が止まらなかった。南洋の孤島、ペリリュー島で目の当たりにした光景そのままだったからである。</p>

<p>（＊軍歌「戦友」の詩に読み替えて作られたという。）</p>

<p>一、比処は、お国幾千里
遥かに遠き南海の
鳥も通わぬ島かげに
倒れし戦友よ今何処</p>

<p>二、戦に敗れ国亡び
戦友が勲は無となり
戦友がむくろはすておかれ
草木と朽ちて苔むしぬ</p>

<p>三、幾度月日はめぐるらん
弔ふ身よりの一人なく
額づく友の影もなく
訪なふものは雨と風</p>

<p>四、やがて輝く日の御旗
戦友がいまわの戦場に
はらから集い来て見れば
のどけき島のたたづまい</p>

<p>五、一度入りてジャングルの
奥みに戦友を求むれば
無残なるかや遠近に
野晒ならぬシャレコウベ</p>

<p>六、戦友が遺骨の傍に
淋しき年月まもりしは
穴のあきたるてつかぶと
まだ朽ちやらぬ軍靴</p>

<p>七、雨と降りくる砲爆に
戦友の多くは倒れゆき
返す力の術もなく
リーフに砕く波しぶき</p>

<p>八、かはきをいやす水もなく
飢をしのぐ食もなく
ましてや弾丸もつきはてぬ
ただひたすらに國のため</p>

<p>九、捧げし生命はおしまねど
かかる運命にあはんとは
戦友が無念が身にしみて
頭をたれて只なみだ</p>

<p>十、いざや帰らんもろとも
四季うるはしき父母の國
蓋す誠に差はあれど
心安けくねむれかし
心安けくねむれかし</p>

<p>軍歌の詩にあるように弾丸飛び交う中で傷ついた戦友を気遣いながら戦い戦友を背負って戦場を駆ける将兵でなくては、こんな素晴らしい詩は浮かんでこない。お父上が戦死した戦友に寄せられる深い思いと、死を悼む悲しみが胸を打つ。</p>

<p>真っ白く美しく揃った歯が残された頭蓋骨を胸に抱いて涙を流したあの日の悲しみが込み上げてきた。</p>

<p>"凛々しい顔だちの青年だったに違いない"と生前の面影を偲びながら思わず落とした涙がシャレコウベに滲んで広がっていった。殆ど欠けていない頭蓋骨を洞窟の奥からそっと持って這い上がり、五十数年ぶりに外の新鮮な空気を吸わせてさしあげた。</p>

<p>昼間でも暗いジャングルの生い茂った樹葉を通して天空から一筋の光が射し込みシャレコウベを照らした。神秘的な情景に息を呑んで見つめる若い隊員たちの表情が忘れられない。異国の戦場に戦ったままの姿で放置されている将兵にとり戦争はまだ終わってはいない。</p>

<p>日本をすっぽりと覆った霧が晴れるのはいつの日か！世界のいかなる国にもない悠久の輝やかしい歴史を持つ日本に誇りを持ち、聖徳太子が諸外国に示されたあの『日本は陽出づる国』であるという堂々たる自信を政治家が取り戻した暁には、国のために戦った御霊が眠る靖国神社に総理大臣が背を向けるような恥かしいことはさせまい。</p>

<p>靖国神社はかって日本の軍人であった台湾の人も、韓国の人も、沖縄から本州に疎開中に撃沈された対馬丸に乗っていた九百余名の小学生も、従軍看護婦さんも、樺太で殉死された九名の電話交換手も、また世界中の戦場で亡くなった異国の人々も祭られているのを、マスコミ自身も知らない。報道の姿勢次第では国民の意識は変わる。靖国神社に遺骨が埋葬されていると信じている人が沢山いることは嘆かわしい。</p>

<p>神社に祀られた御霊は分祀することは出来ないという事実さえ知らぬマスコミ人は多い。靖国神社は独立した宗教法人である。仮りに日本政府が、いわゆるＡ級戦犯七人を「分祀すべし」という決定を下し法制化したとしても、宗教法人に政治が介入することは出来ない。政教分離を声高に主張するマスコミが一番良く知っている筈である。靖国神社や千鳥ガ淵墓苑がありながら、近隣国の要請で膨大な税金を使い国立墓苑の建設が自民党中枢の要人により進められているという新聞記事を読んだが、かりそめにも税金を使いそんな愚かな無駄をしないで欲しい。国立墓苑建設の推進派の日本遺族会々長の女性会長から、靖国神社参拝推進派の自民党の政治家が変わったが、就任早々に中国に表敬訪問し従来とは違う発言を堂々としているのを聞き、政治家の身代わりの早さに驚くばかりである。</p>

<p>稿を閉じるにあたり、この歴史ある『日本及日本人』の読者にお願いしたい。世界の旧戦場に放置されたままの百二十万柱の英霊の御遺骨を父母が待つ懐かしい故郷にお返しするＮＰＯ法人『環境保全機構』の運動を、一人でも多く、の国民に広めて頂くことを。</p>]]></description>
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         <category>nandn</category>
         <pubDate>Mon, 22 Aug 2011 16:50:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>文藝春秋寄稿文：「サクラ・サクラ」</title>
         <description><![CDATA[<h3>「サクラ・サクラ」</h3>
<p>呆てしなく広がる空も雲も海辺に建つ家々も鶏も椰子の林も、すべてを真紅に染めて暮れてゆくパラオの浜辺に佇んで私たちは亡き英霊を偲んだ。この南浜の蒼い海の底に、異国の荒野に、洞窟に、いまだ百二十万柱の遺骨が放置されたままである。先の大戦でパラオのペリリュー島が激戦地になろうとした時、日本軍はパラオ国民を戦禍から守るためにすべてパラオ本島に移住させた。パラオの人々は累々と横たわる日本将兵の遺骨を埋葬しながら「自分たちが今生きていられるのは日本の兵隊さんのお陰だ」と感謝し、日本将兵を桜の花にたとえ「ペリリュー桜をたたえる歌」を作り、半世紀たった今も記念日には歌いつぎ日本将兵の慰霊をされている。</p>
<p>昭和十九年十一月二十四日、ペリリュー島の激戦は日本将兵の全員玉砕で幕を開じた。九月十五日に米軍が上陸以来、三日で日本軍を落とすと豪語した戦闘が二か月と五日間つづいた。米国の戦闘史上、最高の損害比率の将兵たちを失った。二十四日、四時、大山の戦闘指揮所洞窟で中川州男大佐はパラオ本島司令部に最後の打電をした。『サクラ・サクラ』の暗号だった。二日前の二十二日、七時、戦況の悪化により中川大佐はパラオ本島の司令部に次のように至急電報を打った。「通信断絶の顧慮大となれるを以て、最期の電文は左の如くいたしたく、承知相成りたし。一、軍旗を完全に処置したてまつれり。一、機密書類は異状無く処理せり。右の場合『サクラ』を連送するにつき報告相成りたし」と。</p>

<p>日本軍の戦いについて、太平洋艦隊司令長官Ｃ・Ｗ・ニミッツが次のように記している。― "諸国から訪れる旅人たちよ　この島を守るために日本軍人が　いかに勇敢な愛国心をもって戦い　そして玉砕したかを伝えられよ"。</p>

<p>平成十一年九月、ペリリュー戦で日本将兵と熾烈な戦いをした米元海兵隊員たちと一緒に私はペリリュー島で日本将兵の遺骨収集をした。ガジュマルの枝が縦横に絡みつく険しい大山の斜面に無数の洞窟が掘られていたが、半世紀の歳月でほとんどの入り回は枯れ葉に埋もれていた。わずかに開いている所から滑り込むと、数十人は住める広いもの、二、二人用の小さなもの、中で縦横につながっている司令部などその数約八百ほどと言われる。この島で数十年、遺骨収集をしている清流社の神官がたの思い出話は興味深い。彼等が国学院大学の学生だった頃は鰐を生け捕りにして捌いて食料にし、テントを張って水を溜め飲料に使ったという。鰐を縄で縛り担いでいる写真もあった。彼等は今なお、春秋のお彼岸やお盆には掃除、献花、献香のために島に渡る。英霊を崇敬する真摯な心と誠実さがな
れば長く続けることは難しい。暗く深い洞窟の中でヘッドランプの微かな明りを頼りに堆積した土砂を掘る。とすぐに英霊に逢えた。真っ白な美しい歯並びの頭蓋骨をそっと抱いて洞窟を這い上がり半世紀ぶりに外の涼しい風に当てた。ジャングルの樹葉を通して天空から一筋の日の光がシャレコウベを照らした。在りし日の凛々しい姿を想いながら私の落とした涙がその面に滲んだ。私を見つめるその眼高で今一度父母が住む山河を、咲き匂う桜の花を見たかったであろうと、最後の電文に込められた日本人ならではの切なる思いを感じ熱いものが込み上げてきた。青春も愛する人も父母も、全ての思いを断ち切って戦場に飛び立った英霊が今なお暗い洞窟の中に苔むす屍になっているのを見るのはあまりに悲しい。もう遺骨収集は終わったという日本政府の冷たい態度に悲憤し、ペリリュー島で夫を亡くした未亡人は娘と孫を連れて今も遺骨収集をされている。日本政府は国のために亡くなった先人に余りにも冷たい。疎開中に撃沈された千五百人の小学生も、沖縄のひめゆり部隊の女学生も、集団自決した交換手の乙女たちも、韓国人も台湾人も祀られている靖国神社に日本の首相が心からの哀悼の思いを捧げるのはいつの日のことか。白鳩が遊ぶ靖国神社の境内の玉砂利を、英霊たちがこよなく愛した「桜」花のびらが今年も散り染めることだろう。</p>]]></description>
         <link>http://www.tojo-yuko.net/sakura/sakura.html</link>
         <guid>http://www.tojo-yuko.net/sakura/sakura.html</guid>
         <category>sakura</category>
         <pubDate>Fri, 19 Aug 2011 17:22:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>東條英機元首相公的遺書全文</title>
         <description><![CDATA[<h3>遺書</h3>
<p>開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰なぐさめられておるが、国内的の自らの責任は死を以もって贖あがなえるものではない。</p>
<p>しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した。自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。</p>
<p>天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。</p>
<p>元来日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志おんこころざしに依より行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。此度このたびの戦争に従事してたおれた人及び此等これらの人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。心から陳謝する。</p>
<p>今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨のぞまなければならないのではないか。此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。</p>
<p>天皇陛下の御地位は動かすべからざるものである。天皇存在の形式については敢えて言わぬ。存在そのものが絶対必要なのである。それは私だけではなく多くの者は同感と思う。空気や地面の如ごとく大きな恩めぐみは忘れられぬものである。</p>
<p>東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相あい協力すべきものである。東亜民族も亦また他の民族と同様に天地に生きる権利を有もつべきものであって、その有色たるを寧むしろ神の恵みとして居る。印度インドの判事には尊敬の念を禁じ得ない。これを以もって東亜諸民族の誇りと感じた。</p>
<p>今回の戦争に因よりて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸いである。列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。</p>
<p>現在日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。又日本人が赤化しないように頼む。大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされねばならぬ。実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、今回の敗戦の原因であったと考えている。</p>
<p>今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、極東の大勢がどうあろうが、終戦後、僅か三年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯かくの如くである。今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。</p>
<p>今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、米軍が日本に在るが為ためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。依よって米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。</p>
<p>今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた。米英の指導者は之を救済する責任を負うて居る。従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。</p>
<p>日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に抛棄した。これは賢明であったと思う。しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。然しからざれば、盗人が跋扈する形となる。（泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである）</p>
<p>私は戦争を根絶するためには慾心を人間から取り去らねばと思う。現に世界各国、何いずれも自国の存在や自衛権の確保を主として居る（これはお互い慾心を抛棄しておらぬ証拠である）。国家から慾心を除くということは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実は此この通りである。それ故ゆえ、第三次世界大戦は避けることが出来ない。</p>
<p>第三次世界大戦に於おいて主おもなる立場にたつものは米国およびソ連である。第二次世界大戦に於いて日本と独乙ドイツというものが取り去られてしまった。それが為、米国とソ連というものが、直接に接触することとなった。米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。この見地から見ても、第三次世界大戦は避けることは出来ぬ。</p>
<p>第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。此この時に当たって米国は武力なき日本を守る策を立てねばならぬ。これは当然米国の責任である。日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。そうでなしとすれば、米国は何等なんらかの考えがなければならぬ。米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。凡およそ生物として自ら生きる生命は神の恵である。産児制限の如ごときは神意に反するもので行うべきでない。</p>
<p>なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。従ってこれは速すみやかに止めてほしい。日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。</p>
<p>我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。戦犯者の家族には保護をあたえられたし。</p>
<p>青少年男女の教育は注意を要する。将来大事な事である。近事、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少すくなくない。この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。</p>
<p>今回の処刑を機として、敵、味方、中立国の国民罹災者の一大追悼慰霊祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。此等これらについては衷心謝罪する。</p>
<p>然これと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐憫して悔悟あるべきである。</p>
<p>最後に、軍事的問題について一言する。我が国従来の統帥権独立の思想は確に間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。兵役制については、徴兵制によるか、傭雇兵制によるかは考えなければならない。我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。この点については、大いに米軍に学ぶべきである。</p>
<p>学校教育は従前の質実剛健のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ。言いかえれば、宗教教育である。欧米の風俗を知らす事も必要である。俘虜のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。</p>

<h3>辞世</h3>

<p>我ゆくもまたこの土地にかへり来ん　国に報ゆることの足らねば</p>

<p>さらばなり苔の下にてわれ待たん　大和島根に花薫るとき</p>


<p>『祖父東條英機「一切語るなかれ」』東條由布子 著 (文藝春秋) より</p>]]></description>
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         <category>isho</category>
         <pubDate>Mon, 08 Aug 2011 14:15:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>家族愛 ― 東條英機とかつ子の育児日記・手紙より</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4863211287?ie=UTF8&tag=keiouassist-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4863211287" title="家族愛―東條英機とかつ子の育児日記・手紙より" target="_blank"><img src="http://www.tojo-yuko.net/tou081222-thumb.jpg" width="193" height="280" alt="家族愛―東條英機とかつ子の育児日記・手紙より" /></a>

<p>軍人、東條英機の知られざる一面がここに</p>
<p>没後60年―</p>
<p>巣鴨に散った軍人、東條英機の知られざる一面。</p>
<p>軍人であり、首相であり、そして「父」でもあった東条英機の真実の姿がここに。</p>
<p>全文初公開の日記を通して家族の絆を訴えた、ハードカバー／300頁超で贈る渾身の1冊。</p>]]></description>
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         <category>publish</category>
         <pubDate>Mon, 22 Dec 2008 14:37:09 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>平成20年6月4日Ｓ・Ｏさまから頂いたメッセージです。</title>
         <description><![CDATA[<p>東條　様</p>
 　
<p>中野の集会にて、失礼いたしました。<br>
国士舘６３年卒のＯと申します。</p>
<p>どの時代にも風潮の乱れがあったと思いますが、
 あまりにも事なかれ主義が蔓延しております。
<p>私事で恐縮ですが、子供の為にも[声を上げて
いかなければ] と思い勉強し始めております。<br>
今後とも,ご指導ご鞭撻の程,宜しくお願い致します。</p>
]]></description>
         <link>http://www.tojo-yuko.net/message/20080604message.html</link>
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         <category>message</category>
         <pubDate>Sun, 08 Jun 2008 10:54:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>平成20年2月10日Ａ・Ｎさまから頂いたメッセージです。</title>
         <description><![CDATA[<p>初めての乱筆文章失礼します。</p>
<p>私は、今、当時の大東亜戦争を自分なりに勉強しています。<br>戦争に入るまでの
経緯などを検証してみると明らかにその当時の日本は、ＡＢＣＤ包囲網、ハル
ノート（本当はホワイト氏（ソビエトスパイ）の勅書）などにより、明らかに
西洋国家や清（今の中国）などから挑発につぐ挑発でやむなく戦争に入らざる
おえない状況でした。<br>また、当時日本の国定でもあった八紘一宇の精神を持っ
て東南アジアなどの植民地から開放すると言う大儀があった為、アジアを代表
して日本が戦争をする必要があったと私は感じます。</P>
<p>そして、ポツダム宣言を受諾し、戦争は終了しました。しかし、日本は、アメ
リカの豊富な物量の前に武器を解除したのであって、完全にアメリカに屈した
とは、思いません。<br>何故なら、昭和天皇ご自身が敗戦と言ったのではなく、終
戦とお答えになっているからです。ですから、東京裁判は、勝者が一方的に敗
者を出鱈目な裁判であり、天皇陛下に忠実であった東條英機氏こそ、キリスト教で
いう殉教者であると私は感じます。</p>
<p>だから、東條閣下も靖国神社に合祀
されたことは、喜ばしいことであると感じます。日本の神道は、人間は死んだ
らみな神として祭られるという考えがあるからこそ、靖国に東條閣下などの当
時のＡ級戦犯と
呼ばれていた人々も祭られるというのは、日本人として自然な考えであり、中
国や韓国の靖国批判と言う内政干渉なんかに、日本の政治家はちゃんと内政干
渉であると声を大にして言ってほしいと言いたいです。</p>
<p>靖国神社に参拝しているのは、中国、韓国以外の世界の要人や軍隊なども参拝
しているのは事実です。
私は、靖国神社を中国共産党や、韓国に政治利用されているのが悔しいです。
早く、日本も一度大東亜戦争をその歴史的状況から公平に評価するべき時が来
る必然性があると思います。</p>
<p>現在の親殺しや、家庭崩壊、学校の学級崩壊などその
当時の日本人では、考えられないことが毎日ニュース
で流れてきています。今こそ、その当時の誇り高い日本人を思い返しマッカー
サーの呪縛から目覚めて日本人の本来持っている気高さに気付いてほしいです。</p>

<p>長文乱筆失礼しました。<br>
由布子様もお体をお大事にして、今後の御活躍をお祈りします。</p>
]]></description>
         <link>http://www.tojo-yuko.net/message/20080210message.html</link>
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         <category>message</category>
         <pubDate>Sun, 08 Jun 2008 10:23:16 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>平成20年1月17日Ａ・Ｍさまから頂いたメッセージです</title>
         <description><![CDATA[<p>東條由布子様</p>
<p>ＴＶなどでご活躍をされてる姿を拝見し、本当に自分も頑張らなければいけな
いのだなと思っております。</p>
<p>自分自身、若い頃は東京裁判など詳しい話はわからなかったのですが、本など
で東條元首相の姿や最期の詳しい話を知る度に胸が苦しく涙いたしました。<br>
しかし、詳しい話は知らなかった時でも、
戦争をしあっていた国から裁判という茶番で見せしめをうけたという印象でし
たので、わかるひとにはわかりますから、そう思っている人は多いですよ。
特に３０〜４０代のひとは。</p>
<p>中傷をいまだにするひとは一般世論（マスコミの言うこと）に賛同することが、
支障がないというただそれだけでなんだかんだと言う人が大半だと思います。</p>
<p>しかし、時代は動いていると感じます。<br>
ＧＨＱの催眠術からとかれていない年代のかたは
まだたくさんおりますが、これからはまた新しい日本の未来を築く年代がいる
のです。
その未来の日本人の為に上へいく階段を作るのは我々の仕事ですね。</p>
<p>なんともまとまらない文章になってしまい、申し訳ありません。
ただ、由布子様には「応援しております！分かっているひとはたくさんいます
よ！」とお伝えしたかったのです。</p>
<p>いろいろな活動をされて、本当にご立派だと思います。いつまでも応援してお
ります。
くれぐれも御自愛くださりますよう・・<br>
乱文失礼いたしました。</p>]]></description>
         <link>http://www.tojo-yuko.net/message/20080117message.html</link>
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         <category>message</category>
         <pubDate>Sun, 08 Jun 2008 10:15:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>平成20年1月7日Ｋ・Ｋさまから頂いたメッセージです。</title>
         <description><![CDATA[<p>はじめまして。</p>
<p>この度、「南京大虐殺の真実」のYouTubeのリンクを経て、東條由布子様の記
者会見のビデオに辿り着き、大変感動致しました。</p>
<p>南京大虐殺の件は、兼ねてから莫大な情報量の中から自分なりに真実を突き止めたいと色々と調べておりましたが、かつては多くの日本人が今も誤解している様に、私も事実として信
じておりました。<br>
けれどもつきつめていくうちに、そして、東條由布子様の会
見を観て、全てがはっきりした思いになりました。</p>
<p>太平洋戦争は大東亜戦争であり、自衛戦争であり、白人からアジア諸国を守る
ために立ち上がった民族は日本人だけと知り、何とも誇らしい気持ちになりま
した。</p>
<p>私の主人は黒人ですので、それは先祖代々、白人達から迫害を受けてきた歴史
がありますので、日本人が立ち上がったという精神や、事情は深く深く理解で
きるものがあります。</p>
<p>私はまだ３２歳と、まだ若い世代に入るとは思うのですが、着物文化や日本の
伝統工芸を次の世代に残したいと強く願いながら、自分自身も精進していこう
と思っておりましたが、今、更に日本人としての誇りや力を貰った気がします。<br>
ありがとうございました。</p>
<p>今後も心身ともに健康で、ご活躍なさって下さい。
遠くロサンゼルスからお祈りしております。</p>
]]></description>
         <link>http://www.tojo-yuko.net/message/20080107message.html</link>
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         <category>message</category>
         <pubDate>Sun, 08 Jun 2008 09:51:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>平成20年12月29日Ｙ・Ｈさまから頂いたメッセージです</title>
         <description><![CDATA[<p>はじめまして、いつも拝見させていただいております。
     是非とも東條由布子さまへお聞きしたいことがございます。</p>
<p>私は昭和44年生まれで東京都江東区深川の出身です。<br>
     私の祖父は予科練から神風特攻隊であったと幼少の頃より祖母に話をよく聞い
     ていました。
<p>江東区の深川地域と言えば60数年前に連合国による本土爆撃、東京大空襲で火
     の海となった場所ですが今ではその面影すらありません。</p>
<p>そこで、私は戦争の知らない戦後教育を受けた世代を中心に実際に戦争を体験
     されて方々からお話をお伺いし、正しい史観を共有し次世代へ伝達して行くこ
     とを目的にしております。</p>
<p>東條由布子さまは戦争を知らない世代や子供達へ何をどのような形で伝えてい
     かなければならないとお考えでしょうか？</p>
<p>私の祖父達は後世の私達に何を伝え何を託したのだろう？　戦争を知らない世
     代と正しい歴史認識を共有し、その後の世代へ語り継ぎたいと願っております
     し、小学校や中学校などの遠足・社会科見学などに靖国神社参拝などをするべ
     きだと思っております。</P>]]></description>
         <link>http://www.tojo-yuko.net/message/20071229message.html</link>
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         <category>message</category>
         <pubDate>Sun, 08 Jun 2008 09:25:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>平成19年11月29日にＴ・Ｓさまから頂いたメッセージ</title>
         <description><![CDATA[<p>こんにちは。日本の行く末を憂える者として意見を送らせていただきました。
永住外国人地方参政権が、来年の通常国会で成立する様な動きがあると知って、
非常に強い危機感を持っています。</p>
<p>公明党を筆頭に各党も同調している様ですが、私も永住外国人の方々が参政権
を得る事自体には反対しません。<br>
しかし、まずは国籍を取得するべきだと思うのです。</p>
<p>日本国民として責任を負った上で、権利を主張するのは当然です。
ですが、現状では永住外国人の方々に利権を与えるだけで、日本にとってプラ
スになる事は決して有り得ないでしょう。</p>

<p>韓国が在韓日本人の地方賛成権を認めたので、
日本も在日韓国人地方参政権を認めるべき。<br>
と相互主義を訴える方もいらっしゃるようですが、
在韓日本人と在日韓国人では余りにも規模が違い、在日韓国人の政治への影響
力は計り知れません。
<p>相互主義とは言っているいますが、同様の権利では無いことは明白です。<br>
このような法案を通すことには、日本人として断固反対します。</p>]]></description>
         <link>http://www.tojo-yuko.net/message/20071129message.html</link>
         <guid>http://www.tojo-yuko.net/message/20071129message.html</guid>
         <category>message</category>
         <pubDate>Sun, 08 Jun 2008 09:13:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>東京裁判　日本の弁明　p564〜565　より</title>
         <description><![CDATA[<p>以下は、マッカーサー元帥の言葉です。</p>
<p>1951年（昭和26年）5月3日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会において、次のような発言をしています。</p>
<hr />
<p>日本は、絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そして、それら一切のものが、アジアの海域には存在していたのです。</p>
<p>もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れてゐました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです。</p>]]></description>
         <link>http://www.tojo-yuko.net/toukyousaiban/mac1.html</link>
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         <category>toukyousaiban</category>
         <pubDate>Wed, 11 Jul 2007 22:28:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>東條由布子の演説</title>
         <description><![CDATA[<p>東條由布子の演説をご覧いただけます。</p>
<p>ファイルサイズが大きいので、しばらくお待ちいただいてからご覧ください。</p>
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]]></description>
         <link>http://www.tojo-yuko.net/douga/itigaya.html</link>
         <guid>http://www.tojo-yuko.net/douga/itigaya.html</guid>
         <category>douga</category>
         <pubDate>Wed, 11 Jul 2007 15:55:16 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>平成19年7月11日にK・Hさまから頂いたメッセージ</title>
         <description><![CDATA[<p>チャンネル桜で放映された7/3の外国特派員協会でのお話に感銘を受けました。</p>
<p>「大東亜戦争は侵略戦争ではなく、正しい戦争であった」との見解は全く正しいものです。</p>
<p>折から参院選挙報道に絡めて、反日マスコミが貴殿を貶めるべく攻撃を仕掛けて来ると思われますので、一層の理論武装を期待します。</p>
<p>大東亜戦争をめぐって想定される質問の第一は、米国人が素朴に信じている「真珠湾を不意打ちした以上日本は侵略をした」の類です。在米日本大使館の怠慢で事前通告文の手交が遅れたという申し開きは、日本側の落ち度ですから理由にはなりません。</p>
<p>そうではなく、日本が真珠湾攻撃に出る前に、米国は支那大陸に「フライング・タイガー」を派遣する等、局外中立義務を放棄し支那事変に加担しており、事実として交戦状態にあったことを挙げるのが肝要です。</p>
<p>第二は、支那事変以降の対中戦争の性格です。これはコミンテルンの指令の基に中国共産党が蒋介石を日本と戦わせ、漁夫の利を得べく仕組んだ戦争です。</p>
<p>近年明らかになった史実によれば、中共が日本をむりやり戦争に引きずり込むため、停戦協定違反を繰り返し、本格的戦争に拡大させたものです。ましてや日本の侵略戦争ではありません。</p>
<p>以上は釈迦に説法の類ですが、貴殿の成功のために微力を尽くしたいと思い、メールしました。</p>]]></description>
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.html</link>
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         <category>message</category>
         <pubDate>Wed, 11 Jul 2007 10:55:08 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>

