大東亜会議を企画し、世界を独立に向けた日本。その日本の舵取りは、間違いなく東條英機が行いました。
天皇第一の臣下を自負し、責任を取ってA級戦犯として裁かれました。
しかし、意図的に隠された事実が多々あります。東條英機の孫、東條由布子はそれをすべて明らかにします!
国際情勢の中で、日本のとるべき方向性を考えます。地政学、リアリズム、プロパカンダの観点から、日本の真の独立のためのヒントとなる情報を発信してゆきます。
大東亜会議を開いたことは日本の財産である
太平洋戦争当時、アジアの国々は日本とタイを除いては欧米列強から植民地支配を受けていました。
そんな中、東條英機内閣が、アジア初のサミットとも呼べる会議を開いたのが大東亜会議です。
現在はAPECがあります。アジア太平洋経済協力(Asia-Pacific Economic Cooperation)はアジアだけでの経済圏を作らせないためにアメリカが介入していますが、大東亜会議は正真正銘のアジア人によるアジア人のための初の会議だったのです。
戦後教育の中では全く評価されていないこの会議ですが、ここからアジアの独立運動がスタートし、戦後はすべて各国が独立していった事実を見るとこの会議の意義は大きい。
とくにインド、インドネシアでは東條英機に対する評価は絶大である。
あまり取り上げられない大東亜会議について、深田祐介氏の本を中心に紹介します。
植民地だったアジア各国の首脳を集めたアジアで初めての国際会議。
それが大東亜会議であり、この会議をもとに各国が独立を誓い、戦後勝ち取っていった。
現在の歴史教育ではあまり取り上げられないのですが、ここで紹介します。
大東亜会議二日目のこの日、ボースは、「自由にして繁栄に充ちたる新東亜の建設」 にあたり、日本が指導的立場に立たねばならないのは、歴史の必然であるとして、一九〇四年、明治三十七年、日本がロシアに対して 「蹶起(けっき)( STOOD UP TO RESIST )して以来、日本にはこうした指導的使命が生じたのだ、と説く。
「策士」バー・モウの、内なる理想主義は、この十盲吉の夕刻、あらゆる現実を超えて炎のように燃えさかる。
大東亜会議に最も酔ったのは、バー・モウだといわれるゆえんである。
演壇に立ったバー・モウは熱弁をふるった。