日本がいまだやり残していること

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日本がいまだやり残していること

『私たちが生きた20世紀』(文藝春秋)より

街の電光掲示板が今世紀の残り日数を刻々と告げている。「二十世紀」という呼び名と別れる寂しさがより募ってくる。今世紀の最後の日、私の心の中の走馬灯には自分の人生に大きな影響を与えた人々の面影が映し出されるに違いない。

昭和五十年代、我が家には百歳の祖母と四歳の曾孫が同じ屋根の下に暮らし、楽しそうに会話をしていた。母方の祖母マサは長崎で医学を修めた父親の勧めで上京し女子教員を養成する大学に入った。日露戦争が勝利した年、彼女は大学を卒業し郷里に帰り教師になった。ほぼ同じ頃、父方の祖母かつ子も福岡から上京し女子大に入った。平塚らいてう女史が女子教育に情熱を傾けていた頃である。三十年後、二人は夫の勤務地である満州(現在の中国東北部)で子供たちの結婚話で会うことになる。無論当時はそれを知るよしも無い。祖母たちは髪を桃割れに結い上げ、くくり袴に編み上げ靴を履き平均台を渡リテニスに興じた。新しい国造りの担い手として若者にかけられる期待は大きく、彼等も西欧の知識を精力的に吸収した。祖母が残したノートには初めて見聞きする西欧教育に胸を躍らせる文字が目につく。舞踏会華やかなりし鹿鳴館時代に祖父母たちは青春時代を送った。

東條家の家系図を見ると軍人は英教、英機の二代だけで、元は『能』の宝生流の宗家だった。曾祖父・英教は山県有朋に見出だされ四人の若者たちの一人としてドイツに留学した。後にメッケル将軍は"東洋にこんな優秀な男がいたのか!"唸ったという。祖父・英機も父親と同じ軍人の道を歩み、女子大の学生だった、かつ子と結婚し陸軍大学に進んだ。

こうした生活環境の東條家に熊本の片田舎の教師の娘だった母が二十歳で嫁いできた。「東條家にとっての今世紀は?」と問われれば、首相の座にあった栄光の時代から、戦後の四面楚歌の中で人目を避けて生きてきた時代を含め、東條家の歴史と共に歩んできた母の人生と重なる部分が多い。「東條家に嫁いで本当に幸せだった」という母の心には、戦後の悲しい時代は消え東條の祖父母の懐かしい面影と優しい言葉しか残っていない。母が嫁いできたばかりの頃、祖父が買ってくれた若草色のショールと、初孫の兄が生まれた時に、祖父がデパートから買って病院に持って来てくれたベビー布団とお宮参りの祝い着が今も大切に母の箪笥にしまわれ、その機月を物語る。

母にとって舅・英機は世界中からいかなる謗りを受けようとも最も敬愛する優しい義父であった。弟が小学校に入学した日、担任の女教師から"東條君のお祖父さんは「泥棒」よりも悪いことをした人"と級友に紹介され泣いて帰った時、母は「世間の誰が何と言っても、お祖父さまは御国のために命を捧げられた立派な御方です。東條家に生まれた誇りを持ちなさい」と毅然と言った。この自信に満ちた『誇りを持て』という言葉が戦後の人生を支えてくれた。両親を戦争で亡くした近所の三姉弟に追いかけられ、石をぶつけられ、小さな妹と弟を兄と私が一人ずつ抱えてうずくまり薪で叩かれている時、物心ついていた兄は何を考えて耐えていたのだろうか?また、転校先で担任のなり手が無い時、毎日ポールに登って窓から級友の姿を眺めていた幼い兄の心を思うといじらしくてならない。当時、獄中に在った祖父に兄は幼い文字でその胸中を書き送っている。『僕はお祖父ちゃまのことを誰が何と言っでも黙っています。お父ちゃまがお返しをしてはいけないと言うので殴られても我慢しています。本当は僕だってお返しぐらいは出来るけど!』と。

獄中の祖父から祖母や父母宛てにくる手紙には、必ず兄「英勝」の名前が見える。傷ついた幼い心が綴ったこの手紙を祖父はどんな思いで読んだのか。

あれから半世紀が流れたころ、『昭和天皇独自録』が出版された。一人の人間として赤裸々に胸中を述べられた文中に東條に信頼を寄せられている文字が多々あった。長年、鬱積していた思いが吹っ切れた。母の手箱の中に大切に保存されていた膨大な数の祖父母からの手紙や絵葉書や育児日記など、我が家に残された祖父母に関する資料を全て網羅して、家庭を軸にした東條英機像を描いた本を書いた。それが文春文庫に収まっている『祖父東條英機「一切語るなかれ」である。平成十年春には東條英機を主人公に、東京裁判の真相を公開した映画『プライド 運命の瞬間』が上映され百三十万人の観客を動員した。私への取材攻勢からしても、海外のマスコミもいかに東京裁判の真相を知りたがっているかが分かった。大きな時代のうねりが確かにやって来た。"百年の後の名を期せ、真実が明かされる日が必ずやって来る"と言った祖父の言葉が心に甦る。

祖父の遺書の中に見える一つの悲願成就のために、私は新たな一歩を踏み出した。平成十一年九月十日、日米合同の遺骨収集団の日本側団長として南の島、パラオ・ペリリュー島に渡った。異国の戦場にはいまだ百二十万柱の遺骨が放置されたままである。祖父が生きていたら、飛んで行って詫び自らの手で収集したであろうにと胸が塞がれる思いだった。密林の洞窟の奥深く半世紀もの間、放置されたままの遺骨の前に額ずき"こんなに暗くて寂しい所に、ごめんなさい、 一緒に故郷に帰りましょう″と、温れる涙がハラハラと遺骨を濡らした。若い団員が母のような優しさで遺骨を胸に抱く姿に涙し、かつての敵国だった米国軍人たちが命懸けで日本兵の遺骨を探してくれるその崇高な心に感動した一間もなく忘れ得ぬ激動の二十世紀が終わる。しかし、遺骨収集の旅が終わる日はいつの事か、その目処も立たない。